発掘された竪穴式住居の数は日本一〔3532〕2012/12/16
2012年12月16日(日)晴れ
昨夜、おきゃくトリプルヘッダーをこなし、今朝はちょっとゆっくり。結構忙しいので遠くに走りにはよういきません。ご近所五台山頂上経由牧野植物圏通り抜けRUNを速攻で済ませてきました。その手前で、会社に行っちょったので、昨日ご紹介した田村北遺跡を今一度撮影。これが今朝の田村北遺跡の竪穴式住居跡。すごい。
なんでも、南国市の田村遺跡で発掘された竪穴式住居跡は500棟になるそうで、この数字は日本一ながやそうです。ニッポンイチ。吉野ヶ里でも200ちょっとやそうですき。竪穴式住居の数が、その集落の大きさや重要さを示す訳でもないので、一概には言えんけんど、弥生期のとてつもなく重要な遺跡であることは間違いありません。
この田村遺跡は、空港滑走路の工事や道路の工事など、大規模な公共工事があったおかげで、それほどの規模の発掘調査ができた、という理由もあります。それにしても広大。弥生中期後半の最盛期には、数千人がここに居住しよったと思われるそうです。数千人ですよ、数千人。現在の大川村が500人居りませんし、馬路村も1000人切っちょりますき。当時の日本列島でも有数の集落であった訳です。そんな大集落が高知に。
あと、この田村遺跡の特徴は、弥生草創期から終末期まで、ずうっと集落で有り続けた、ということ。こんな遺跡、他にはないそうです。
写真は、たくさんある竪穴式住居跡のひとつ。直径6m。非常によく保存されちょりまして、教科書に載せたいような見事な住居跡。
まん中に柱の穴。それを取り囲むように少し細めの柱の穴が7つ。その8本の柱はたぶん上でひとつに纏められて円錐のようになっちょったがでしょう。円の外縁部には溝。ここで、一家族が生活しよったがでしょう。こんな住居跡がもう果てしなく、ここにはあります。掘れば出て来る、てな感じ。
今回の発掘で、非常に珍しいものがでてきました。全国でも初めての例で、いったいそれが何なのか、謎ながやそうです。涙型の、深さが2mくらいはある穴。端っこから土が階段状になって、穴の底に下りていけるようになっちゅうそうです。穴の底は、ひょっとしたら井戸やったがかも知れません。壷がいくつか出土しちゅうそうですき。
井戸かも知れない遺構。階段を下りた突き当たりに壷がある風景は、何やら宗教施設めいてはおります。この田村地区の弥生期は、どんな宗教観で生活しよったのでありましょうか。
さて、昨日のにっこりにも書いた重要なテーマ。何故、これほどの大規模な集落が、弥生後期後半になると急激に消滅していき、周縁部へと生活基盤が移っていったのか。
昨日の現地説明会の後、埋蔵文化財センターの方に尋ねてみました。が、真相はわからんそうです。
そこで、ひまわり太郎の、ここ田村は物部川が氾濫したり津波がやってきたりと、自然災害に弱い土地であったので、灌漑技術等が向上した弥生終末期には、安全な台地の方へと生活基盤を移していったのではないか、という妄想をぶつけて見ました。すると、それは非常にまともな考え方で、その可能性も高い、と言うてくれたのであります。しかし、証拠はなく、また、発掘調査で終末期の集落が界隈に出て来んとも限らんので、一概には言えない、と釘も刺されたのでありました。
色んな想像が広がる太古のロマン。会社のしゅっと近所にこんな遺跡がある素晴らしさ。