水丁場の標柱と秋葉山神社〔348〕2004/03/29
2004年3月29日(月)快晴!
昨日は良い日曜日でしたね。「お客様の声」コーナーの「武蔵びと」様のご投稿によりますと、関東地方は桜満開とのこと。昨日は素晴らしいお花見日よりで、皆さん存分に楽しまれたことでしょう。ひまわり太郎も、花見ではありませんが、景観抜群の「ごめん・なはり線」と田野町を存分に楽しんで参りました。
今日も良いお天気で、「今週も頑張るぞ!」という気分にさせてくれる素敵な朝になりました。5:00くらいに起き出しまして、例によって鏡川を遡行、水鳥の朝食風景や小鳥のさえずり、早朝散歩の皆さんとの挨拶などを楽しんできました。
写真は、鏡川中流域「新月橋」の北詰にある「水丁場」の境を示す石柱。藩政期、鏡川北岸の大堤を、上は写真のすぐ近くの思案橋から下は雑喉場越戸の西の間で12の「丁場」に分割、それぞれ家老が支配する「明組」が担当して水防の業務を行ったのであります。高知の城下は昔から水害には悩まされてきました。江戸時代はしっかりした水防組織でもって対応していたのですね。水位がどのくらいになったらどの役職の人が出勤する、などということが細かく決められておったようです。
写真の石柱の東面には「従是(これより)西北一ノ丁場」と刻まれ、東面には「従是東二ノ丁場」と刻まれちょりまして、担当区域の境目を示しております。「にっこりひまわり[40]でも、四ノ丁場と六ノ丁場の境目の標柱をご紹介しちょります。あれ?4と6の間ということは五ノ丁場はどうなったのでありましょうか?この「丁場」の制度は、藩政期初期から定められていたようですが、寛文12年(1672年)に丁場制度改正の布告が出された文書が残っちょります。それまで、12地区に区分していた丁場ですが、この改正により全丁場の長さを揃えることとし、区域の数が11に減ってしまいました。それに伴い、上町の丁場の数が5から4に減り、五ノ丁場を欠番としたので、4の次が6になったのであります。
それから、写真前方に写っちょります祠は「秋葉山神社」。火事から守り、家内安全を守ってくれる神様ですね。