仙台城、心無き俗吏〔3472〕2012/10/17
2012年10月17日(水)仙台は快晴!
高知は結構ガイに降りゆうにかありません。が、ひまわり太郎は昨日の夜から仙台に来ちょりまして、仙台は快晴。心地良う晴れちょります。気温は当然高知より低いので、朝は寒いくらいでした。長袖Tシャツを持ってきて正解でございました。
今朝は5時に起き出して、仙台朝RUN。空気が澄みきって、実に清々しい。北国の朝。空気のありようが、高知とは全然違います。
広瀬通りを西へ走ると西公園。その向こうが広瀬川。川沿いにちょっとだけ遡上すると大橋。広瀬川界隈は、早朝から走りゆうヒトも結構居ります。
大橋の袂で、川原へ下りてみました。そこに、「仙台キリシタン殉教碑」と、3人の銅像が立っちょります。元和十年(1624年)の真冬、ポルトガル人宣教師ほか8名のキリシタンが、大橋の下の川に、厳寒のさなか浸けられ、水責めにあって殉教したことを伝える碑と銅像。美しい広瀬川と大橋ですが、そんな歴史も刻んできちょります。
川を渡り、仙台城へ。
青葉山は、仙台の街を見下ろす美しい山。ここに、最初にお城が築かれたのは鎌倉末期ともいわれます。が、本格的に築城したのはもちろん伊達政宗公。関ヶ原の後。大きく美しいお城であったようです。
詰の段の護国神社の横に、「仙台城の歴史」という説明看板が。それには、政宗公が築城したいきさつなどが詳しく書かれちょります。そして、明治維新後、すべてが無くなってしもうたことも。
写真はその説明板。よくご覧下さい。「心無き俗吏」という激しい言葉が見えます。その辺の文章を書き写してみましょう。
「かくて仙台城は藩祖以来伊達氏、13代270年にわたり1度も戦火を被らなかった平和な城として郭内の殿舎、楼櫓を完全に保存して明治時代に至ったが、心無き俗吏によって破却せられ、あるいは火を失し、戦災に罹りなどして全滅に帰した。」
仙台藩は、当然ですが、戊辰戦争の賊軍。奥羽越列藩同盟の盟主。ですきに、薩長にはかなりの恨みがあります。ひょっとしたら土佐にも。仙台城は、その薩長政権の「俗吏」によって破却された訳で、そのことに対する思いが「心無き俗吏」という言葉になって現れちゅうのでありましょう。
仙台市博物館の方へ下ると、詰の段の政宗公騎馬像の上半身と瓜二つの胸像があります。これは、戦争中、供出された初代騎馬像の一部。なんと、塩釜市で捨てられちょったのを、地元の史家の方が発見して残ったものやそうで、ここにも心無い俗吏が居ったことがわかります。
その政宗像の横には、小笠原諸島が日本の領土であることを確定させるのに功績のあった学者、林子平さんのことを書いたプレートがあります。そしてその横に、仙台で、文学者として生きることを決意した魯迅さんの像が。今の、中国大衆の動き、日本大衆の動向を見たら、魯迅さんは何とおっしゃったでしょうか。
仙台城は、昨年の大地震で、その石垣などがかなり被害を受けました。その修復工事がかなり大規模に行われよりますし、自動車の通れんなっちゅう道路もありました。しかし、大切なものとして修復工事が施されゆう姿を見て、文化財を大事にする心が嬉しゅうなりました。心ある、能吏がいます。
機能、目先の利益、一時的な観光誘客などにめを奪われると、本当に大切なものが見えんなったりします。後世、心無き俗吏と言われることのないよう、今を生きる我々が、しっかり考え、じっくり考え、間違わんようにしていかんといかん、ということが、この説明板を読むと、身にしみます。