鏡川、北新田、新田、荘園、南海地震〔3463〕2012/10/08
2012年10月8日(月)晴れ!
今日は体育の日。情けない事に、足がちくと痛いので、今日はゆっくり休みよります。歩くがをなめたらいきません。体力的には全然大丈夫でしたが、足の一部の筋肉がついて来れず、今日まで痛みを引きずっちゅうのでありました。
ああいったウォークイベント、全国各地でやりゆうにかありません。知りませんでした。マラソンイベントとはまた客層が違うようですが、普通の格好をした結構ご高齢の方がビュンビュン歩いて完歩しゆうがには感心します。若い衆よりもずっと楽々。
毎日、ギッシリ歩きゆうき、普段運動しやあせん若い衆よりも歩ける、ということもあると思います。毎日の積み重ね。若い皆さん、ぜひ、ご高齢の方と一緒に歩いてみてください。その足腰と体力には、ビックリします。
ご高齢の方が歩けるのは、子供の頃から歩くことを今の人たちよりずっとやってきたから、という説もあります。昔はどこへ行くにも基本的に歩いてでしたき。そうとすれば、これは生物学的に由々しき問題。人類が歩くことをせんなっていったら、そっちの方向に生物的進化を遂げることになったら、こりゃあ大変。
もっともっと、普段から歩きまわる習慣をつけていかんといかん、と考えさせられた今日の足の痛みです。
てな訳で、今日の写真は家の近所。鏡川大橋北詰のちょっと西。堤防の外側の階段を降りたところから撮影してみました。階段を降りるがが、これがまたちくと痛いのではありますが。
キレイになったとは言え、ちょっとゴミが浮いたりしちゅう鏡川。満潮に近く、汽水域のこの界隈は海の水が入ってきて潮の香りがします。水は結構澄んで美しい。右端に九反田橋が見え、この対岸は、町名で言えば「北新田町」。キタシンタチョウと読みます。この左、鏡川大橋よりも東の南岸が「新田町」。シンタチョウと読みます。
潮江地区は、海であった時代から徐々に灌漑が進み、開発され、豊かな農地になりました。古くは「潮江荘」という荘園も形成されました。11世紀のこと。京の下鴨神社領の荘園。とは言え、まだ、南嶺に近いエリアやったでしょう。この対岸は新田というばあですき、ずっと後世になって拓かれた農地。先人の大苦労によって神田川から潮江用水が引かれ、潮江に、広大にして豊かな農地がどんどんとできていったがでしょうか。
11世紀に成立した潮江荘も、1099年の康和の南海地震によって海没。せっかく灌漑によってできていた農地が、海に沈んでしまい、荘園として復活したのは184年後の1283年。以前にも書きましたが、地震による地盤沈下で、水が引かず、引いた後は農地の塩分除去に苦労して、184年もかかってしもうたがでしょうか。
その後、農地でもなかった場所が農地として開発され、新田ができ、良田が広がる豊かな農村となった潮江。しかし、高知のお街に近かったことから戦後急速に工場ができたり住宅街ができたり。今ではビッシリと住宅に埋め尽くされた感がある潮江。
今から900年前、南海地震によって海没し、復活するまで184年かかった場所と、当時はまだ農地ですらなくて海や湿地であった場所は、今、広大な住宅地になっちゅう訳です。