白鳳地震、黒田郡、いろいろな伝説〔3415〕2012/08/21
2012年8月21日(火)降ったりやんだり
今朝の新聞に、白鳳地震は、南海、東南海、東海の3連動地震やった可能性が高い、という記事が載っちょりました。そうでしょう。高知での、記録にのこる最大規模の地震は宝永地震(1707年)とされちょります。が、天武天皇の時代、684年に発生した白鳳地震も、言い伝えなどから、かなりの規模やったことが推定されます。
日本書紀に、土左国の50余万頃(約10平方キロメートル)が海になった、という記載があります。これは、宝永や安政、昭和でもあったように、現在の高知市東部などの海抜の低い部分が地盤沈下、津波によって長期間海になったことを示すものかも知れません。しかし、土佐には、黒田郡(くろだごおり)の伝説があります。ひょっとすると、それは、多くのヒトが住んだ広大な黒田郡が土佐湾に沈んだことを示すものかも知れん訳です。
「白鳳地震陥没の地面は、東は室戸岬より西方足摺岬に達する黒田郡と称する一円の大地なり」という伝説が、今に伝わっちゅうがはご承知の通り。
まあ、これでは広すぎるので、実際はもっと限定された地域であったのではないか、と考えるヒトが多いのも事実。特に、高岡郡に、多くの伝説が残されちょります。「昔、大良千軒、小田千軒などといえる繁栄の市があり、白鳳地震の時陥没して今海底に帰せり」というのや、須崎海上の大坊千軒の伝説とか、枚挙にいとま無し。何何千軒といいますと、何度かご紹介した、福山の草戸千軒を思い出します。あれも伝説であったのが、川の改修工事で発見され、実在したことが証明され、詳細な発掘調査が行われたもの。
と、いうことは、ひょっと、将来、土佐湾に沈んだ古代の街が発見されんとも限らん訳です。
さて、写真は、いつもの野市、上岡八幡宮。夏草が茂る参道入り口を撮影してみました。左端の石柱が、何度もご紹介した、安政南海地震の碑。津波が、この西の物部川川原まで上ってきたことが刻まれる、地元の島内武金さんという方が明治になってから建立した地震碑。宝永や白鳳のときには、どこまで津波は押し寄せてきたのでしょうか。
鳥居と地震碑の丁度まん中辺り、クロガネモチの樹の左に、草に隠れて石灯籠が立っちょります。ご寄進されたのは文化九年。1812年。今から丁度200年前。200年間、ここにあって、善男善女を見守ってきた石灯籠。ここに立てられて42年後、安政南海地震に遭遇しております。倒れもせずに残り、それから158年経過しました。