電車と道路と街の活性化〔3414〕2012/08/20
2012年8月20日(月)晴れ!
最近、夜のうちに雨が降って朝は晴れちゅう、という日が多い気がします。昨夜も雨が降りましたが、今朝は、東の空に金星、木星、オリオン座、冬の大三角形がクッキリ見える、よいお天気。風も幾分涼しく、秋の気配がちょっとづつ。
昨日、書くがを忘れちょりましたが、宇津野峠を駆け上り、意識がボーっとしてきて休んだ後、再び走り始めたところで大きなシマヘビに遭遇しました。虻に気を取られちょったので、足下がおろそかになり、思わず踏んでしまいそうになりましたが、無事、彼(彼女?)は草むらの中へと消えていったのでありました。
実は今年、これっぱあ山をたつくりよって、アオダイショウとかシマヘビには全然遭遇できませんでした。チンマイ可愛いがには三嶺とかで逢いましたが。ですきに、ちょっと嬉しい出来事でした。山で大きな蛇に逢うと、何やら、縁起が良いような得したような気分になりませんか?
さて、ここは今朝、4時過ぎの南はりまや町。潮江橋北詰から北の方向、はりまや橋方面を撮影してみました。この時間、道路はこじゃんと空いちょります。向こうの明るいクがはりまや橋交差点。
明治37年、桟橋と梅ノ辻の間と堀詰、乗出の間に電車が開通。そして、明治39年、ここに、道路の橋に並んで電車の橋が架けられ、東西の路線と南北の路線がつながりました。当時は、潮江橋を渡ってきた電車はしゅっとそこの角を左折、ゆるやかなスロープを西へ下り、下りきったところで右折、北上して堀詰の電停とつながっちょりました。
何故か。
当時の地図を見てみますれば、道路は、これほどは広うはないにしてもはりまや橋、江ノ口川まで、北にまっすぐ延びちょります。土讃線の日下、高知間が開業して高知駅ができるがは大正13年ですき、その頃は、まだ道路も江ノ口川まで。
しかし、普通に考えたら、こっから北進して、現はりまや橋交差点で、東西の路線と交差させる計画が一番合理的。たぶんそんな計画やったがでしょう。ところが、はりまや橋界隈に住む住人たちが、電車が通ったら街が寂れる、というて反対、取り敢えずここで左折して、はりまや橋を迂回するルートで営業した、ということにかありません。その話は、「かるぽーと」にある横山隆一まんが館で、少年時代をその時代、その界隈で過ごした横山隆一さんの談話として見ることができたと思います。
電車がここで北進し、はりまや橋交差点で東西線と交差するようになるのは昭和3年。ですきに、22年もの間、電車はここで左折しよった訳です。
こうやって見てみると、街づくり、街の活性化というのは簡単ではないことがよくわかります。当時、種崎町界隈が、高知一の繁華街。堺町、八百屋町も栄えちょりました。交通の便が良くなることと、街が元気になることが一致せんことは、当時の皆さんもよくわかっちょった。たしかに、道路ができて交通量が多くなると、商店街はやっていけません。ヒトは、歩いて回遊しながら街を、買物を楽しむ。その仕組みをどうつくるか。
ゴチャゴチャして、いろんなものが入り組んで、ちょっと猥雑で、老若男女楽しめる街があって、そこに住む老若男女がたくさん居て、電車などの交通機関で楽しみに来る老若男女がひしめいて。そんな街は、公共交通機関と街の融合、距離感が絶妙ながでしょう。