高知市民の7月4日〔3367〕2012/07/04
2012年7月4日(水)広島は曇りじゃけえのう
今日は7月4日。高知市内に120機のB-29が飛来して、とてつもない数の爆弾を投下した高知大空襲は今から67年前、昭和20年7月4日未明でした。
その空襲のことを鮮明に記憶しちゅう方々も、ひまわり太郎の母も含め、ずいぶんと高齢化してきました。
記憶と記録は、後世に残していかんといけません。
501機のB-29がサイパンを飛び立ち、姫路、高松、徳島、そして高知に別れて空襲をしたそうです。120機が高知。
南からやって来て、十市あたりから北上、住吉野(グドラックさんの南)上空で西に進路を変えて高知市内を火の海にしていったそうです。
亡くなった方は400名を超え、高知の市街地はほとんど焼き尽くされてしまいました。鏡川の土手や川、沈下橋を渡って大原町方面に逃げて助かった方も多かったと聞きます。
こないだ、高知城の周辺の防空壕があった場所が9ヶ所特定できた、という記事が高知新聞に載っちょりました。身近に残る戦争。そこで命が助かった市民も多かった訳で、そういった戦争の遺産を後世に伝えていくのは、我々の使命。
伊達野の、日本軍が掘った壕の跡は、もう、道路工事のために消滅してしまいました。しかし、鉢伏山には、痕跡がたくさん残ります。そうとは気付かれないまま。
空港周辺の、グラマン機銃掃射の弾痕が残る掩体壕も、物部川土手のトーチカも、身近に残された戦争。今一度、キチンと説明板をつけて、子ども達に伝えていく必要があります。
今朝は広島。昨夜、流川界隈でグッスリ飲りすぎまして、ちくと二日酔い気味の広島の朝。写真は、広島駅を発車したばっかしの車窓からマツダzoom zoomスタジアムを撮影したもの。良い球場です。
戦争の記憶でいえば、広島は原爆。昭和20年当時、ひまわり太郎の父親は17歳で、山口県の宇部高専の学生さんでした。そこで終戦を迎え、高知へ帰ることになって、列車で原爆被災直後の広島を、焼けてしもうて何もなくなった広島を通って帰ったそうです。その、新型爆弾の凄まじさ、悲惨さに、声もなかったそうです。
世間一般では、7月4日といいますとアメリカの独立記念日。独立宣言が公布された日ですが、高知市民にとっては、忘れてはならない戦争の記憶を呼び戻す、大切な日。