大鋸屋橋から四ツ橋の痕跡を眺める〔3344〕2012/06/11
2012年6月11日(月)晴れ
心地よく晴れた月曜日。一晩寝て、足の痛みは増えちゅうか減っちゅうか気になるところでございましたが、ちくと減っちょりました。よかったよかった。まあ、今週は毎晩宴会になっちゅうので、どうせ走りに行ったりはできんかったがですき、ゆっくり養生。食べる量と質は考えんといけません。なんと言うたち今週末は会社の健康診断ですき。
さて、昨日の不入山、そしてその北側の鳥形山は、地層で言うと、秩父帯に属するといいうこと。秩父帯でも一番南の、三宝山層群。不入山の南は急峻になっちょりまして、有名な仏像構造線が走っちょりますね。その仏像構造線の北側が、秩父帯でも、三宝山層群という石灰岩層となる訳です。
つまり。
野市の三宝山から、上岡山の北で物部川を渡り、稲生の石灰山、治国谷の石灰山、天崎の石灰山を経て不入山、鳥形山につながっちゅう地層ということになるがでしょうか。いっつも眺めゆう石灰岩層が、昨日の山まで延びてきちゅう、2億年かれこれ前に形成された地層ということになります。う〜ん、壮大。その地層のお陰で、高知は、有数の石灰採取地であり、石灰に関わる製造業が発展してきて今に至っちゅうというこになります。なるほど。
さて、全然話しは変わりまして、この写真。今朝。4時半前の堀川。大鋸屋橋の上から西向いて撮影しました。
左手が開館10周年をむかえた高知市文化施設かるぽーと。
この正面は、暗渠になって、その上に広場がしつらえられちょります。ここは、以前、堀川と横堀の交差する場所で、その交差点にロの字型に四つの橋が架けられ、四ツ橋と呼ばれよったがはご承知の通り。
まず、藩政期の比較的早い時期に架けられたがが、ここ大鋸屋橋と、ロの字の西側の幡多倉橋、そして北側の菜園場橋。そう。当初、北側の橋は菜園場橋でした。で、その後、その橋の袂に存在した豪商木屋の屋号から木屋橋と呼ばれるようになったのであります。そして、時代は下って昭和5年、現かるぽーとの場所に全国で2番目の中央卸売市場が解説されるにあたり、ロの字の東側に橋が架けられて、そっちの方が菜園場橋と呼ばれるようになった訳です。ついてきよりますか?
でですね、翌年の昭和6年に南側の納屋堀橋が架けられて四ツ橋が完成。
また、時代が下って昭和42年、中央卸売市場は、現在の弘化台へと移転。で、翌43年に納屋堀橋が埋め立てられて駐車場に。しかし、十数年前までは、残りの3本の橋がありましたですよね。それも、この、かるぽーと建設に際して取り壊され、今のように暗渠になってしまいました。いや、現在の電車通りの下は暗渠とは言え新堀川が流れゆう訳で、木屋橋だけは、電車通りとして残っちゅうがでしょうか。いっつも、皆さん、木屋橋を気付かんうちに渡りゆうがかも知れません。
できることなら暗渠にせず、水辺の空間を広く残しちょいもらいたかったと思うのは、わがままでありましょうか。そうしちょったら、今後、新堀川の市営駐車場を取り除いて堀川との行き来を舟でできるようにした際にも、はたまたはりまや橋方面に堀川を復活させた際にも、その水辺空間が役に立つにねえ、と、この風景を見るたんびに考えるのでありました。