またまた草戸千軒〔3327〕2012/05/25
2012年5月25日(金)福山は曇っちょるけえのう
福山弁は、広島弁と違うかも知れません。曇っちょるけえのう、なんぞという表現はせんでしょうか。が、ひまわり太郎の広島弁の知識は、菅原文太さんが喋りよった仁義なき戦いシリーズによるものですき、これもアテにはなりませんが。
と、いう訳で今朝は福山。広島県の福山。実は昨日、東京で業界の寄り合いがございまして、午前中の飛行機にて東京へ。会合と懇親会が終了した後の新幹線で福山までやって来ました。着いたらもう夜中でございました。
そして今朝。
雲が多く、時折小雨がぱらつく福山をたつくりまわってきました。前回福山に泊まった際にもたつくってきた草戸千軒。福山駅からちょっと西、芦田川を南へ下っていったところに架かる法音寺橋の上。この橋の架かっちゅう界隈に、中世都市の遺構、草戸千軒がある、という話は、前回2012年2月16日のにっこりで詳しゅうにご紹介しちょります。
今一度説明しますれば、鎌倉時代から室町時代にかけて、芦田川の河口近くにあったこの場所には、都市ともいえる、商業や海運が発展した街が形成され、多くの庶民が暮らしよったという遺跡。江戸時代中期の本に、ここにあった幻の都市「草戸千軒」が、寛文13年(1673年)の大洪水ですっかり流されてしもうたと書かれちょりまして、その存在が予想されちょった都市。
1930年頃、芦田川の付け替え工事で夥しい遺跡が出土、ここが伝説の草戸千軒であることが判明して、1961年頃から大規模に発掘調査が行われたという訳です。
中世の庶民の暮らしを知ることができる、これ以上ないくらいの貴重な遺跡。形成されちょった街の上を土砂が覆い、そのお陰で破壊されることなくそのままの状態で保存された遺跡。ポンペイにも比せられる、見事な遺構。
この写真の眼下が、その遺構。今は変哲もない中洲ですが、中世、ここに、瀬戸内有数の賑わいがあった、ということ。
日本の歴史を見るとき、どうしても、資料がたくさん残されちゅう支配階級視点からのものが中心になります。それは、大切なことではありますが、世の中の一面を捉えてはいるもののすべてではない。例えば、武家支配の機構からはずれた、天皇家と直接結びつくことによって自由な活動を保証されたひと達が居たのではないか。そんなことを考えて、そんな視点で日本の社会を考えていった歴史学者に網野義彦さんという方がいらっしゃいます。その考え方は網野史観と呼ばれるようになりました。
その、網野先生が、ここ草戸千軒の発掘調査結果をもとに、ここにあった中世の都市、公的行政機構からある意味独立した商業都市の様子を解き明かしちょります。実際の社会は、公的記録からだけではわからない。ホントのことを教えてくれる遺跡が残っちょった、ということは、こじゃんと素晴らしいことやと思います。
河川改修工事等で、遺構がなくなってしまいそうになった際、大規模に発掘調査を行うように働きかけ、実現させたひとたちが居ます。そんな方々のおかげで、歴史学は発展し、ホントのことがわかっていくのでありました。