山崎弥右衛門〔3320〕2012/05/18
2012年5月18日(金)晴れ!
晴れますけんど、なんとなく霞んだ状態が続く高知市内。すっきりくっきりいきたいところ。昨夜も冷たい雨でしたね。とはいえ、会社の、ひまわり太郎の部屋の前にあるヤマモモの樹の実がだいぶ大きゅうなってきました。もうちょっとして赤い色が付いたら食べれます。
今朝は、江ノ口川河口から、鉄塔1本になった五台山を眺めてみました。江ノ口川が国分川に流れ込むとろこに架かるこの橋は、弥右衛門橋。その名称は藩政期初期の山崎弥右衛門さんに由来します。
元々、海であったところに土砂が堆積、干拓もすすんで、中世から戦国期にかけて、江ノ口川と鏡川の間のエリアにちょっとづつヒトが住むようになってきました。そして藩政期に入り、山内の殿様が城下町を建設。当時は、まだ、江ノ口川も鏡川も河道がキレイに定まっちゃあせんかったと思われます。で、堤とかがつくられ、河道が確定し、街づくりが行われていくこととなった訳ですね。
さて、二代藩主忠義公の時代、元和二年(1616年)、家康さんが死んだ年、潮江村の庄屋、山崎弥右衛門さんが、藩主の命令で、新田を開発しました。下知の潮止堤防の内側に開発された田んぼを、ディベロッパーの名前をとって弥右衛門の丸、と呼ぶようになりました。で、その名前が400年を経過した現代にも残っちゅうということ。地元では、開発の恩人ということで、尊崇されつづけてきた訳です。400年はすごいですな。
弥右衛門さん、その功績で、郷士身分になっちょります。
ちなみに、この北西、金田町は、同じ時代の寛永年間に新田を開発した金田源右衛門さんの名前からきちょります。
その頃、堤防や新田ができ、都市計画が進んで、急速に川の整備も進んだと思われるのであります。
正保元年(1644年)に、幕府が、各藩に命じてつくらせた城下町の絵図があります。土佐藩も作成しました。国立公文書館にデジタルアーカイブで保存されちょりますので、誰でも見れます。土佐国城絵図。
それを見ますと、江ノ口川という名称も見えますし、上流で鏡川とつながっちゅう様子がわかります。整備が進みました。
どうやらこの図は、設計図的な意味合いがあるようで、色んな数字が書き込まれちょりますね。今の中の橋界隈に架かる橋の長さが十七間。一間が1.8mとすれば、30mを超えますな。今の江ノ口川より、かなりずっと広いイメージ。
現在、江ノ口川の源流は鏡川ということにはなっちょりません。2005年7月9日に知った、江ノ口川の「終点」は、塚ノ原の北にありました。そこが終点とすると、この弥右衛門橋が起点ということになります。