鏡川河口の潮干狩りと、赭鞭一撻最終回〔332〕2004/03/13
2004年3月13日(土)晴れ
今日は土曜日。よう晴れました。本当に晴れて暖かくなりました。完全に季節は春ですね。今日の午後4時半の鏡川はご覧の通りの干潮で、絶好の潮干狩り日和になりましたね。ご覧の様に、所々貝掘りを楽しむ方がいらっしゃいます。ここは鏡川河口部、汽水域の鏡川大橋付近。前方に見える大きなアーチ橋が「鏡川大橋」です。
今、手元に終戦直後のこのあたりの写真があります。丁度今ぐらいの季節でしょうか。たくさんのアオノリが干され、大勢の家族連れが潮干狩りを楽しみよります。この写真と見比べてみるととても面白いです、はい。今の鏡川も一時期に比べるとずいぶんきれいになりました。この美しい川を、我々高知市民は愛さんといかんですね。
鏡川大橋の向こうには五台山が見えます。
さてさて、五台山ゆかりの世界的植物学者、牧野富太郎博士が少年時代に作った自戒の書「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)現代語訳、前回10条から12条までお届けしましたので、いよいよ今回はラストの3条をご紹介しましょう。
十三、邇言を察するを要す
職業や男女、年齢のいかんは植物知識に関係ありません。植物の呼び名、薬としての効用など、彼らの言うことを記録しなさい。子供や婦人や農夫らの言う。ちょっとした言葉をばかにしてはなりません。
十四、書を家とせずして、友とすべし
本は読まなければなりません。しかし、書かれていることがすべて正しいわけではないのです。間違いもあるでしょう。書かれていることを信じてばかりいることは、その本に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことです。新説をたてることも不可能になるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、本は、自分と対等の立場にある友人であると思いなさい。
十五、造物主あるを信ずるなかれ
神様は存在しないと思いなさい。学問の目標である心理の探求にとって、神様がいると思うことは、自然界の未だ分からないことを、神の偉大な摂理であると考えて済ますことにつながります。それは、真理への道をふさぐことです。自分の知識の無さを覆い隠す恥ずかしいことです。
以上が、牧野博士の「赭鞭一撻」全15条です。最後の15条なんぞは、牧野博士の強烈な意思が溢れ出てすごいですね。