坂本家のその後〔3294〕2012/04/22
2012年4月22日(日)雨
今日はかなりガイな雨が朝から降りよります。ホントは、今日は、かの三嶺へ登りに行こうかとしちょりましたが、あまりの悪天候に断念。またのお楽しみになってしまいました。
ここは家の近所。雨が降りふりしきる九反田。その向こうが東九反田公園。藩政期末期、土佐の殖産興業を担う「開成館」が置かれ、その後、西郷、木戸らの新政府に関する重要な会談が行われた場所でもあり、また、板垣退助らによって立志社が最初に設立されたがもここ。「憲政之祖国」と刻まれた大きな碑が真ん中に屹立しちょります。
昨日ご紹介した、北海道開拓の拠点「北光社」のモニュメントは、この北の堀川沿いを少しだけ西へ行った場所にあります。その北光社の指導者の一人が、坂本直寛さんであることは、昨日も書きました。直寛さんは、自由民権運動の指導者の一人でもあります。
坂本龍馬の話のなかに、よく、安田の順蔵さんという人物が登場します。その、高松順蔵さんの奥さんが、龍馬の姉で、安田家へもビッシリ出入りしよった訳です。その安田の高松順蔵さんの次男が高松習吉くんで、母の実家、坂本家の坂本権平の養嗣子となって坂本家を継ぎました。つまり、龍馬の甥で、龍馬の兄が継いじょった坂本家を相続した、ということになる訳です。その際、南海男と改名。その後、直寛と名前を変えて、自由民権運動や北海道開拓、キリスト教の布教で活躍しました。
龍馬の実家は、ご存知のように、上町にありました。現在も、龍馬生誕地ということで、観光客さんがどっしこ訪れる地。坂本家は、直寛さんの時代の明治15年、この場所に転居しちゅうがです。どうやら、この、写真を撮っちゅう界隈。ここは、しゅっと隣で民権運動の演説会ができたり、船であちこち行ったりできる便利な場所。坂本家が、ここにあったことは、メッソ知られちゃあしません。
ところで、直寛さんが転居した後の上町の家は、色々と紆余曲折があったようです。数年前、昭和前期まで龍馬が暮らした家が残っちょったとして、その間取りの記憶聞き取りから、龍馬生家を復元する、ということが行われたのであります。
しかし、由緒正しき「土佐史談」で、昨年、その論拠はおかしい、という反論の論考が掲載、その誌上で論争が繰り広げられました。
結論は出ちょりません。ただ、客観的に見て、昭和前期までその家が残っちょったというがは、かなり無理がある、という感じではあります。反論された史家の方が一番主張しておられるのは、史学というものが、観光などに都合良いように振り回されるようなことがあってはならん、ということ。その一点。大切な大切な視点やと思います。