大高坂山の満開の桜〔3269〕2012/03/28
2012年3月28日(水)晴れ!
高知では、桜の満開宣言。高知城の桜が満開を迎えようとしよります。高知城の桜は開花が早いので、まだ、その他の桜の名所は満開ではありません。が、だいぶ咲き始めました。もう春本番。
と、言う訳で、今朝は、その、満開になってきたという高知城三ノ丸の桜を見に行っちょりました。このアングルで撮影すると、満開状況がよくわかると思います。が、この三ノ丸の桜、以前みたいに一面ピンクで花見のメッカ、という状況ではないなってしまいました。石垣改修工事に伴い、かなりの桜が移植されたりないなったり。復元された桜も、かつての勢いがありません。これでは花見の名所にはならんです。また、花見の名所にすべく桜を植えるところから始めたいところ。
この三ノ丸には、石垣改修工事の際に発掘された、長宗我部元親さんが築いたと思われる石垣が、見れるようになっちょります。天正16年(1588年)のこと。岡豊から、ここ大高坂山に本拠の城を移した際に、かなり大きく近代的なお城が築かれたと思われます。
その大高坂山は、古代は浦戸湾の海や干潟に浮かぶ島で、その後、鏡川と江ノ口川の間の砂州に街が形成されていきました。今の追手筋を尾根筋とする土地。その頃の遺構が、こないだ、くみあい興産駐車場跡の発掘現場から出土した、という衝撃的な事件がありました。今年3月3日のにっこりでご紹介しちょります。
大高坂氏は、平家の後裔、平田俊遠の子孫とされる豪族。大高坂の山に本拠を築き、その城下を開拓して街をつくりあげていったのは、たぶん大高坂氏。江戸城の太田道灌みたいな役どころでしょうか。
何と言うたち有名なのは大高坂松王丸さん。南北朝合戦の、土佐、南朝方の中心。建武3年(1336年)から、北朝方が、土佐南朝方の本拠、大高坂城の松王丸さんに攻撃を仕掛けちょります。しかし、かなり堅固につくられた大高坂城は持ちこたえました。
北朝方は、現在の升形辺りにあった安楽寺というお寺に、攻撃用の城を築いたとも言われます。なかなかの攻防戦。結局、暦応3年(1340年)1月、松王丸さん戦死で、北朝方の勝利となったのでありました。
その後、大高坂一族はどうなったか。天正15年(1587年)の長宗我部地検帳に「大高坂殿」と見え、かなりの所領を持っちゅう様子がわかります。一族は生き延びたのであります。
上に書いたように、ここに築城した長宗我部元親さんは、治水に悩まされ、浦戸にまたまた本拠を移した、ということになっちょります。しかし、最近の研究では、やはり本拠としたかったのはここ大高坂城で、浦戸に築城したのは、朝鮮出兵とかに都合が良かったからではないか、という説が有力になってきちょります。
やはり、城下町を築き、都市を形成していくには、この場所ほどの適地はなかったようです。
そんな大高坂山は、その後山内氏が築城、長い長い年月が過ぎて、今、市民の憩いの場所になりました。南海地震の際には、この山が「命山」となります。