岡豊の市町と草戸千軒の圧倒的な違い〔3229〕2012/02/17
2012年2月17日(金)晴れ!
今朝は高知。昨日、汽車でモンて来ました。昨日の高知はヌクかったですが、今朝はまたちくと冷えます。とは言え、確実に春になっていきゆう高知県地方。
昨日、福山の草戸千軒をご紹介しました。中世の街の痕跡と言えば、高知では、ここ、岡豊(おこう)があります。以前、2011年4月18日と5月14日のにっこりでもご紹介しました。
戦国期、長宗我部氏は、どんどんと勢力を伸ばします。その本拠はご存知岡豊。写真正面の山が標高97mの岡豊山。長宗我部氏は、この山界隈を中心に本拠を置き、山の南を流れる国分川を利用した船運を押さえて力を蓄えていったのでありました。
そして、その、本拠の近くに形成された、言わば城下町がここ。岡豊山の山裾の方から画面右にかけて、田んぼの真ん中を貫く小さな道が見えますね。これが、その街の中央の道。その道の両側に、間口が狭く奥行きが長い町家が立ち並んじょったのが、岡豊の市町。市町というくらいですき、商業、流通の中心地。もちろん職人さんたちも軒を並べ、なかなか賑やかやったことが想像できるのであります。
1588年、長宗我部元親さんが、本拠を大高坂山に移すことになり、ここにあった街はすっかりそのままその城下へ移設されました。移設先が新堀小学校の西の新市町。
そして、ここは、次第にヒトも減っていき、豊かな農地へと変貌を遂げていったという訳です。ですきに、この、田んぼ道の両脇に細長い田んぼが並ぶ風景は、岡豊の賑わい、市町の痕跡という訳です。
さて、昨日の草戸千軒とこの市町とには、圧倒的な違いがあります。ここは城下町。権力者の本拠近くに形成された、政治的な意味合いも濃い街。長宗我部氏の強力な支配下にあったことでしょう。
ところが、あの草戸千軒は、自由民が農耕とかにはそぐわない川沿いの土地に集まり、自然に形成されていった都市やと思われるがです。
網野史観で有名な、故網野善彦先生が言う所の、「無縁」の地やったがかも知れません。時の権力者の支配下に入らず、場合によっては天皇家と直接結びつくことによって、その自立性を保ち、自由民として商業、芸能などに従事した「無縁」の民。草戸千軒は、ひょっとしたら、そんなヒト達がつくりあげていった自由都市やったがかも知れません。
そんな庶民のエネルギーが経済を発展させ、武家支配をくぐり抜けて賑わいを形成していった、という側面が、中世の日本にはあったようです。