物部川河口、久枝、夜須、砲台、命山〔3108〕2011/10/19
2011年10月19日(水)晴れ!
今日も心地良い朝。晴れちょります。
ここは高知空港の滑走路の東、物部川の土手の上。東の方向を撮影してみました。まだ夜明け前。海には、漁をする漁船の灯りが見えます。物部川の河口。
この界隈に、昔、渡船場があり、土佐の東部と中央部を結ぶ下街道が通るっちょりました。こちらの海岸線は久枝。
元々、 人家も少ない海浜の土地やったがですが、嘉永の頃、久枝浦と呼ばれだして漁民や商売人が多く住み始めた、と記録にあります。嘉永7年、いわゆる安政地震津 波に襲われましたが、被害後、また元のように賑わうようになっちょります。規模が、宝永津波ほど大きゅうなかったきでしょう。
宝永地震津波の際 は、村の中央にあった標高28.2mの室岡山に逃げたり流れ着いたりした者だけ助かった、ということです。で、命山とか宝山とか呼ばれたことは、以前にも 書きました。山の南面には久枝八幡宮が鎮座ましましちょって、文字通り、久枝の皆さんを守ってくれよりました。
昭和16年、海軍航空隊の飛行場が建設されるに伴い、切り崩され、ないなってしもうた命山。勤労動員で、その、山を切り崩す作業に携わった方の一人が、ひまわり太郎もこじゃんとお世話になりゆう、秦史談会会長の松本紀郎さん。貴重なお話を聴かせて下さいます。
今朝の高知新聞に、夜須の山中で、日本海軍の砲台跡が見つかったという記事が載っちょりました。最大射程19kmという、かなり大きな砲台跡。夜須の山は、この写真の向こうの端の山。あそこの山中に砲台を構築しちょった訳です。
どうやら、米軍が上陸して飛行場を占領したら、あそこの砲台から砲撃するがやったろう、と想像されちょります。
戦争の記憶が薄れていくなか、ここにも戦争があったという事実を伝えてくれるものを後世に遺していくのは、我々の義務でしょう。
そして、命山はなくなりました。新しい命山の構築が急がれます。