柏尾山、柏尾寺、白土峠、往還〔3097〕2011/10/08
2011年10月8日(土)晴れ!
心地良い秋晴れの土曜日。春野運動公園では、高校野球やらなにやらかにやら、スポーツ花盛りでした。秋です。
ここは南嶺、烏帽子山と柏尾山の間。しゅっとそこが白土峠。とっと昔、古代からの往還、つまり幹線道路。藩政期は藩の公路でしたので、毎日、たくさんの人達がここを通りました。かなり賑やかな道やったことが想像できます。
こないだ、9月4日のにっこりでは、この往還の春野側の登り口から撮影しちょります。そこにも書いた通り、その道は、今は登山道としてもほとんど使われず、クモの巣だらけの、人が歩いた形跡がない山道になっちょりました。夏は、通る人もほとんど居らんようです。
昔はかなりの交通量やったと思われますし、古代から、かなり重要な場所でもありました。正面に見える山は柏尾山。山頂に鉄塔が2本。NHKと高知さんさんテレビのテレビ塔。2008年10月19日のにっこりでご紹介しちょります。
今、 あの山頂界隈は、テレビ塔があるのみ。山頂の三角点もわかりづらい、樹々に囲まれた鬱蒼とした場所。しかしそこには、熊野信仰華やかなりし頃、大きなお寺 がありました。柏尾寺。今でも「寺の段」という名前が残り、その界隈には、五輪塔とかの残骸が転がっちゅうそうです。
南北朝の頃、春野方面は南朝 方の勢力が強い地域やったようです。現在の高知城の山、大高坂山を本拠とした大高坂松王丸さんは、土佐の南朝方の中心人物。北朝方から送り込まれた軍勢と 決戦をおこなうことになりましたが、その際、南嶺の南の南朝方勢力は、この白土峠を越えて松王丸さんの救援に向こうたがでしょうか。
長宗我部軍が 浦戸湾を渡って長浜に攻め込んできたとき、そこを支配しちょったのは本山氏。朝倉城が本拠で、長浜城や浦戸城、それに春野のたくさんの城を押さえちょりま した。夜襲奇襲によって長浜城を奪われた本山氏は、朝倉から軍勢を送り、長浜戸の本で、長宗我部軍と決戦しました。元親さん初陣とされる戦。その際、朝倉 から軍勢を送り込むルートに、この往還も使われたかも知れません。
長い長いあいだ、土佐の中原と春野、仁淀川、太平洋をつなぐ幹線として活躍したルートも、今はすっかり忘れられ果ててしまいました。