池村の慶蔵さんと稲荷新地〔3073〕2011/09/14
2011年9月14日(水)晴れ!
高知にモンちょります。ここは今朝、4時半頃の若松町。若松町から弘化台に渡る橋の袂から、空に輝く中秋の名月を撮影してみました。左手の冷蔵倉庫は、弘化台にあります。
こ の右手から西へと延びる、川沿いの町が若松町。古くは稲荷新地と呼ばれ、遊郭料亭が立ち並ぶ高知有数の大歓楽街でございました。明治から昭和初期にかけ て。藩政期の頃は、家が数戸しかない、寂しい寂しい場所やったそうです。慶応2年、池村の慶蔵さんという人物が、藩に宅地造成を願い出ます。そして、明治 元年、藩直営の工事として堤防拡幅工事が始まり、翌年完成。そこは、浦戸湾に入ってくる物資やヒトの玄関口。当然のように賑わい始め、そこに集まるヒトを 目当てに料亭や遊興施設が建ち、また、それに引きつけられるようにヒトが集まってくるという連鎖。いつの間にかすごい繁華街になってしまいました。
稲 荷神社の近くまで、土電の電車が走りよったという話は、ビッシリ書きました。戦争が近づき、派手なことは控えられるようになってきた時代まで、その賑わい は続きました。戦後も、下の新地として残りましたが、浦戸湾からのヒトの流れが桟橋方面に移り、だんだんと繁華街では無いなってしまいました。
しかし、物資は、ここで船に積み降ろしされたりもしよりましたので、今でも倉庫会社、海運会社の建物が並ぶ若松町です。
明 治初期の、稲荷新地の開発を見よって思うのは、藩政期の頃は、民間人や、民間人の集まりで、宅地とか堀川とかを開発し、それによって特権を得たりしておっ たことが当たり前やったということ。この方式ですと、公共事業にお金がかからず、民間の財力でインフラを整備できた訳です。例えば築屋敷。例えば新町。例 え弥右衛門。例えば材木町。幕末になり、事情がかわってきたがでしょうか。池村の慶蔵さんが申し出た開発も、藩の直営工事となったようです。慶蔵さん、利 権に与ることはできたでしょうか。気になるところ。