赤岡町、樽屋町、佐賀町 〔3068〕2011/09/09
2011年9月9日(金)晴れたり曇ったり
昨夜は酔っぱろうてにっこりを書きました。文章も酔うちょりますね。
ここは今朝の新堀川。この、かるぽーと前と江ノ口川を結ぶ南北の堀川を、新堀川と呼びます。ややこしいですけんど、本来は違うちょりました。
現 在、堀川の名前で浦戸湾からかるぽーと前までつながっちゅう川、これは、藩政期初期に、城下町の物資やヒトを運ぶために掘られた縦堀。「縦堀」です。そし て、江ノ口川と鏡川を南北につないだ堀川を「横堀」としました。藩政期初期の都市計画の中で、こじゃんと重要な部分です。
で、寛永2年(1625 年)、赤岡町、樽屋町、佐賀町の山町の住人たちが私費を出し合い。横堀から西へ堀川を掘りました。それが新堀。その新堀の両側、つまり南北に街が形成さ れ、その労苦と負担に鑑みて、二代藩主山内忠義公が、その住民たちに林産物売買の特権を与えました。で、材木町と呼ばれるようになった訳です。
土佐の材木商いを独占的に扱うた訳ですき、そりゃあ儲けたことでしょう。
と、いう訳で、本来の新堀は、今はもう埋め立てられてありません。元々の横堀が、今、新堀川という名前で残っちゅう訳です。
この写真は、電車通り沿いの木屋橋から北向いて撮影したもの。この横堀、北の江ノ口川の方から、暗渠になって広い道路になってきよります。新堀小学校のところで、今は工事も止まっちゅうにかありません。計画どおり進んだとしたら、この川の風景もなくなってしまいます。
今、 水辺の街を見直すことで、世界中の都市が再生していきよります。街の中に水辺の空間がたくさんあることは、その都市に、はかり知れない価値を与えてくれま す。ここの広い道路をつくらんと、絶対に困るヒトはどれっぱあ居るか知りません。が、この水辺空間が無いなったら絶対イヤなヒトはたくさん居ますね、間違 いなく。
ところで、材木町になる前の「赤岡町」「樽屋町」「佐賀町」という名称には新鮮な響きがありますな。赤岡も佐賀も、今の香南市赤岡、黒潮 町佐賀でしょう、たぶん。両方とも、漁業、廻船で発展した町。とくに廻船の専門集団が居ったでしょうき、城下町形成時に、ここへ移住してきたがかも知れま せん。樽屋という名称も、廻船問屋を連想させます。この界隈は、城下町形成時から対外貿易センターとして考えられちょったがでしょう。