残されていない記録〔3061〕2011/09/02
2011年9月2日(金)降ったりやんだり
台風12号は、当初、もっと日本の東の方に上陸する予想やったががちょっとづつ西へ振れてきまして、明日、ひょっとしたら高知に上陸します。海はこじゃんと荒れてきました。
こ こは吉川村(香南市)吉原。昨日の写真の、物部川の対岸。河口近くに吉川漁港があり、その東。海岸近くの砂丘に、ご覧のような林があります。その北側に農 地があって、その北に集落。昨日書きました、谷陵記に記載されちゅう松並木は、今はありません。松並木があった場所もわかりません。ひょっとしたら、その 林がそうかも知れんと思うで撮影してみました。右端に小さい松の木が1本だけ立っちょります。
いや、もっと内陸かも知れませんね。今はこのように堤防があって、林のしゅっと北側に畑地、住居のなっちょりますが、昔はこんな堤防もなかった訳で、ヒトが住んだり畑地をつくったりしたがはもっと内陸やったかも知れません。
津波で押し流された砂丘の下から出て来たという田んぼ跡は、どうして砂丘の下に埋もれてしもうたのか。ひょっとしたら、もっともっと昔の津波でやられてしまい、その後、海の水がちょっとづつ砂を運んできたがかも知れません。
そうだとしたら、大津波の被害が、後世のヒトに伝わらず、危機感が薄れてきて住む場所、畑地等の場所選定が甘くなり、そしてまた津波がやって来た、という歴史が推察されます。
吉 原の社寺は、幾多の津波で古い文献をほとんど流失しちょりまして、過去の記録が非常に少ないそうです。かすかに残る伝えでも、特に宝永津波の後で、地域丸 ごと北方に移転したり、有力なお寺が移転したりしちゅうようです。そして、時代が下り、集落の中心が港近くに形成されてくるに連れ、また、社寺もそちらに 遷座するようになってきたがにかありません。
宝永津波で「亡所」になった吉原です。近くに高台もないので、とにかく、避難場所をつくるがが急がれる地域であります。
災害は忘れた頃来たる。情報が豊富な今、東北の被害を忘れていない今、するべきことはたくさんあります。