物部川河口、芳原、亡所〔3060〕2011/09/01
2011年9月1日(木)晴れちょります
今日から9月。神社の森からはツクツクボウシ。草むらからは鈴虫。とはいえ、昨日の高知市が34℃を超えたように、まだまだ暑さはつづきます。
9月1日と言えば、大正12年9月1日の関東大震災。死者10万5千人以上を数えるという、すさまじい被害を日本にもたらした関東大震災。すぐに想起されるのは、地震に寄る大火災と地震後の流言による虐殺等。
東 京で亡くなったのは約7万人ですが、その半分以上の3万8千人は、本所陸軍被服工場跡地の大火災で亡くなっちょります。陸軍の被服工場が移転するに伴い、 丁度、公園にすべく工事中やった場所。そこへ避難してきた東京下町の住民達が、ここで発生した火災と火災旋風に巻き込まれたもの。予想しちょらんかった災 害でした。
その、跡地での火災を除くと東京の死者は3万2千人。神奈川県が3万3千人で、実は、神奈川の被害も凄まじかったことは、あまりイメー ジされちゃあしません。震源地が相模湾沖80kmで、揺れの神奈川が大きかった関東大震災。津波も発生しております。相模湾では、最大10mくらいの津波 が発生。直下型の火災と倒壊での被害が目立ちますが、実は津波の被害も大きかった関東大震災。
そして、震災後の流言と、それを信じたヒトたちによる虐殺は、人間の弱さ悲しさを教えてくれます。寺田寅彦先生も、デマ、流言に流されることへの警鐘を鳴らしてくれちょります。
こ こは物部川河口。沖に台風12号がおりまして、海は少し荒れ気味。いつもより広い河口部になっちょりました。向こう側は吉川の漁港。吉川村(現香南市) は、吉原(芳原)と古川が一緒になって吉川になりました。その吉原について、宝永南海地震津波の記録「谷陵記」は、吉原について次のように記載されちょり ます。ちなみに、この谷陵記のことを、このにっこりひまわりでは谷稜記と、今まで間違うて書いてきちょります。申し訳ございません。訂正します。
芳原
亡 所 浜の松林の外側に、古い田んぼが出て来た。畦の形がはっきりわかる。一反くらいは、松林の西の端にあって、庄屋屋敷からは西南西になる。庄屋屋敷は、 元々の土居の跡ぢゃ。120坪くらいは、松林の東端よりちっくと西で、庄屋屋敷からは南東にあたる。地元のモンが言うに、ここの砂浜を津波が押し流して出 て来た。その下にあった古い田んぼが出て来たという話は、今まで聞いたことがない、ということぢゃ。今の松林は、昔からこの地区の墓地やけんど、2mばあ 掘り返いたち、こんな田んぼ跡は出て来ざった。みんなあで助け合うて3mばあ掘ったらわからんけんど。
この古田、長宗我部地検帳にも載っちゃあせん。いつの時代に没したモンかひとっちゃあわからん。二重三重、四重に松の樹が生い茂っちゅうがを見たら、決して、300年、400年来のモンぢゃあない。
以上読み下し。数百年振りに、埋まっちょった田んぼ跡が出てきた、という記事。そんな、数百年振りのすさまじい威力をもった津波やったことがわかります。