山處穴居ノ有様 目モアテラレズ〔3043〕2011/08/15
2011年8月15日(月)終戦記念日、晴れ時々曇り
暑いです。66年前の今日も暑かったそうです。直視し、考えんといかん日です。
さ て、昨日ご紹介した葛島を、今日は五台山から撮影してみました。写真中央、トラス橋の右手に見える小山が葛島。橋が架かっちゅうのは国分川の河口。あの向 こうに、野中兼山さんが開削した舟入川が流れ込みよります。舟入川ができてから、この手前の地域には新田ができていったとのこと。葛島の北側、砂地という 地区の新田は、田野の左衛門さんという方が願い出て開発したがにかありません。
こうやって見てもわかる通り、海抜は低く、昔、海の底やったことが 想像できます。昭和の南海地震の際にも、周辺の皆さんは逃げ惑い、葛島に逃げ登ったという記録があるくらいですき、それより遥かに規模が大きかった、 1707年の宝永の南海地震津波のときはどんな状況やったのか。こないだうちからご紹介しゆう、奥宮正明さんの「谷稜記」からひろうてみます。
五台山 潮ハ山マデ 家ニモ
吸江 上ニ同ジ
八頭 潮ハ山マデ 家ハ軒ヲ浸シ冬ヲ終テ干落ザレバ 居民所ヲ失ヒ 山處穴居ノ有様 目モアテラレズ
桂島 上ニ同ジ
こ こに言う八頭は、五台山の北東にある屋頭のことで、桂島は葛島。つまり、この写真の界隈の惨状を記載しちゅう訳です。ここに書かれちゅうのは、冬を過ぎて も潮の浸水が引かず、住む所のなくなった住民が、山に穴を掘って生活をしよったということでしょう。地震津波が10月で、それから、寒い冬を、山に掘った 穴で生活したということ。「有様 目モアテラレズ」は悲惨。
大津波な襲うてきた際には、あの葛島が命山となったであろうことは、この文章からでも容易に想像できます。昭和の南海大地震では、国分川の対岸エリアから、葛島橋を渡って大勢の住民が避難して来ました。
今は大きなビルもありますが、あの葛島の小山も、大切な命山。軒を越える津波がやってくることは間違いないようです。