地震と地盤沈下〔3012〕2011/07/15
2011年7月15日(金)晴れ
今日も朝から暑い高知市内。通勤途中に広がる田んぼの中で、早いものは、もう、黄金色になりつつあります。間もなく稲刈り。
さ て、先日の被災地の話のつづきです。仙台では、海岸線の家々がすべて流された若林区から、港をまわって、七ヶ浜、塩竈、多賀城とご案内して頂きました。 七ヶ浜の漁港は、海水面が岸壁ひたひた。潮が引いた状態で、それやそうです。潮が満ちてくると、岸壁よりもかなり上まで海水面が上昇するそうです。これ は、この一帯の地盤が下がってしもうたきです。これを復旧するだけでも、かなり大変であることがわかります。
車で、何本かの橋を渡りました。川の水がかなり多く感じられます。これも、地盤が下がって、海の水がかなり川の上流まで入り込んでくるようになった影響。風景が変わってしまう訳です。
写 真は、今朝、4時半くらいの浦戸湾。若松町から高知港方面を眺めました。緑色の灯りの右手に、丸山台が写っちょります。浦戸湾に浮かぶ島で、明治から大正 昭和初期にかけて、料亭があった島。こちらの、稲荷新地から、舟で渡って利用しよりました。「此君亭」という稲荷新地の料亭が、丸山台をまるごと買い取っ て「丸山台温泉場」として料亭、娯楽施設をつくった話は、このにっこりでも何度か書きました。板垣退助さんがヨーロッパから帰ってきたとき、この丸山台温 泉場で、帰朝報告大懇親会をやっちょります。1000名集まったとか、いや、それ以上やったとか、とにかくすごい人数が上陸しちょります。
そう。 当時の丸山台は、現在の倍以上の広さがあったようです。今もあの島周辺の水深は浅く、干潮時には干潟になります。大潮の干潮時には、向こう岸から歩いて上 陸できます(2008年5月5日、2010年4月29日参照)。何故、板垣退助さんの時代に比べて島の大きさが半分になったかと申しますと、地盤沈下。
昭和21年の、昭和南海地震で、この地盤が下がり、半分が海没してしもうて今に至る訳です。地震は、風景を変えてしまいます。
さ て、南相馬の松永牛乳さんでも、例の、肉牛の飼料藁が汚染しちょったという話が話題になりました。積んでおいた古い藁を使う、という、考えられんかったこ とが起きてます。いつも明るい松永社長ですが、こんな苦労がまだまだ続くがかも知れません。本当に、言葉もありません。
酪農家にとって飼料は、コ スト。そこでこんなことが起きてしもうたがでしょうか。残念です。逆に言えば、こないだ、お客様の声・広場にも書きましたが、東北地方の藁等の粗飼料が、 西日本の我々のところに入ってくることは絶対にありません。何故か。輸送するとコストがあわないからです。ですから、自家栽培か、近所で栽培された粗飼料 を使う、もしくは輸入モノを使う、というのが現状です。
まだまだつづく震災の影響。できることをちょっとづつ、継続的に。