本山氏が考えたこと〔3001〕2011/07/04
2011年7月04日(月)蒸せます
ここは本山町。四国山地の中、吉野川上流の盆地に広がる町。昔、高校生の頃、友人と二人、大杉からバスに乗ってやって来た のが、初めての本山でした。あの時は、本山を通り過ぎ、土佐町田井の旅館に泊まって、翌日ヒッチハイクで大川村、白滝廃坑のゴーストタウンを見に行きまし た。
初めての本山の印象は、こんな山中にこんな広うてヒトが一杯住みゆう場所があったがや、という驚き。想像しちょりませんでした。ビックリ。現在でも、古い町並みの面影を残す町、本山。
写 真は、帰全山公園から町の方を撮影したもの。眼下に吉野川が流れます。戦国の頃、左手の山に、本山城がありました。中世の山城。あの山を本拠とした本山氏 は、平安時代にこの界隈の吾橋庄の地頭職から成長した八木氏が、後に本山氏を名乗ったということらしいですが、勢力を急激に拡大したがは本山清茂(梅慶) さんの時代。戦国中期。この嶺北地域一体に勢力を拡大した梅慶さんは、こじゃんと優れた人物やったことが推察できます。梅慶さんはその後南下、土佐の中原 を見晴らす朝倉城に本拠を移しました。そして、破竹の勢いで、現在の浦戸湾から西の高知平野、そして仁淀川流域まで勢力を拡げたのでありました。そして、 梅慶さんが亡くなった後、息子さんの本山茂辰(しげとき)さんが後継者となり、岡豊の長宗我部氏と戦国土佐の事実上の決勝戦を繰り広げることになった訳で す。
この地は、山中ではありますが交通の便も良く、産物も豊かで、なかなか良い土地でした。しかし、本山梅慶さんは、ここを本拠にしても土佐の覇 者にはなれないことがわかっちょったがでしょう。朝倉城の山は、昨日の岡豊城の山と同じ、眼下を眺めながら想像することができる山でした。自分が覇者に なった姿を。そして土地も豊かで、周囲をぐるりと配下の武将で固めることもできました。
本山の、落ち着いたたたずまいを見ながら、ここから朝倉に進出し、戦国中期では一番の勢力を持ち、元親さんに破れて、またこの地に戻ってきた本山氏のことに想いを馳せます。