息をのむ風景〔2981〕2011/06/14
2011年6月14日(火)晴れ!
昨日の石船ですが、側面の苔を指でこそげ落としますと、八月吉日という文字がでてきました。もし、あの文字が寳永やとしましたら、宝永4年8月。宝永南海地震は宝永4年10月4日に発生しちょりますき、その直前。宝永の地震津波を経験した石船ということになります。上岡山の石段の上ですき、そこまでは津波は来んかったでしょうが、押し寄せてくる津波を見下ろしよったかも知れません。避難してきた人々と一緒に。
さて、ここは今朝の五台山北東。4:40くらいの景色。昇り始める朝日が雲を照らし、尋常ではない美しさになっちょりましたので、思わず自転車を停めて撮影してみました。下を流れる水路は、この西で絶海池に流れ込む農業用水。稲が50cmくらいに伸びた田んぼの向こうに介良三山が見えます。
右側のモコモコっとした山が鉢伏山。その左が介良富士と呼ばれる小富士山。少し離れて、左端に見えるのが高間原山。高間原山には古墳がどっしこありますし、小富士山は朝峯神社が鎮座する信仰の山。鉢伏山も、岩屋観音さんが鎮座するなど古くからの信仰の山。その信仰の山々に、朝焼け雲がおおいかぶさり、神々しい雰囲気となっちょりました。
中世の頃まで、ここは海。五台山は大島と呼ばれる島で、周囲を海が取り囲んじょりました。介良の界隈は荘園。浦戸湾の岸辺に広がる荘園やったがでしょうか。その介良に、源頼朝の弟で義経の兄、源希義さんが流されてきたがは1160年でした。その61年前、康和元年(1099年)、南海地震があり、「土佐で田千余町みな海に沈」んだそうです。その際、現在の高知市潮江地区にあった潮江荘が海没し、復興まで200年近くかかった、という話は、以前書きました。
介良荘はどうやったがでしょうか。この界隈は元々海で、海抜はひっくいですき、荘園の田んぼもたぶん海に浸かったでしょうね。
この界隈も、次回の津波による浸水には備えちょかんといかん、ということです。