前浜、伊都多神社と防災〔2952〕2011/05/16
2011年5月16日(月)晴れ!
こないだうちから、南国市の海岸部の、南海地震津波に関する情報が気になっちょります。そこで、1707年の、宝永地震大津波について、ちくと調べてみました。それによりますと、やはり、久枝界隈は「亡所」、つまり全部流されたということになっちょります。推定の津波の高さは10m~12mくらいでしょうか。
久枝から西へ行くと前浜。前浜の海岸近くには、西からずうっと砂丘が延びてきちょりまして、その砂丘の上を中心として人家が並び、街が形成されちょります。ここは、その砂丘の上の伊都多神社。
宝永の記録では、どうやら、この伊都多神社は助かっちゅうにかありません。写真ではわかりづらいですが、正面に海が見えますでしょうか。海と砂丘の間には波が入り込みましたが、10m以上の海抜がある伊都多神社には波が押し寄せんかったとのこと。で、今も南海地震の避難場所に指定されちょります。
ここ伊都多神社は、砂丘の中でも結構海抜が高いところにあります。前浜、浜改田の皆さんは、取り敢えず、砂丘の高い所へ逃げることが肝要。
ただ、今回の震災でもわかるように、宝永の時に大丈夫やったき、という理屈は通りません。ここまで波が来る可能性も想定し、避難場所を準備する必要もあります。
さて、この砂丘はこっから東へなだらかに低くなり、切戸の放水路でなくなります。切戸から東は、安全な砂丘はないということ。
切戸は、物部川が大氾濫した際に、そこの海岸部の陸地が崩壊して海に流れ込んだ場所。もともと、低い場所やった訳です。宝永津波では、その界隈から津波が入り込み、この砂丘の北側にまわりこんで、一帯を海没させたそうです。
そういった歴史に鑑み、久枝から前浜の防災計画を練り直す必要がありますね。
ところでここ伊都多神社、2010年1月21日にもご紹介しましたが、藩政期後期、祭礼の際にないがしろにされた村方の庄屋が藩に上訴、こじゃんと揉めました。それが天保の「庄屋同盟」結成につながり、そして幕末維新へとつながっちょります。かなり重要な事件の舞台となったがも、この伊都多神社。前浜のおんちゃんらあは侮れません。恐るべし、前浜軍団。