下の新地が形成されていった理由〔2949〕2011/05/13
2011年5月13日(金)晴れ!
心地よく晴れました。ここは稲荷町。土佐稲荷神社さんのちょっと東。堀川の河口になります。右手は、中の島のとん先。ここが、戦争前頃まで、稲荷新地とか下の新地とか言われよった場所。現在はその面影もありません。
この、丁度写真を撮影した場所の北側に、戦争前まで、電車の停留所がありました。知寄町二丁目から分岐して、ここで終点。ここで電車に乗ると、お街の方まで直通やったにかありません。
以前、そのことをご紹介した際、ここに下の新地があったので、電車も通っちょった、てなことを書いたかも知れません。しかし、こないだうちからの馬場孤蝶さんの帰郷日記を読みますと、どうやら認識が違うことに気付きました。
孤蝶さん、帰高中、ビッシリここから電車に乗って西唐人町の宿へ帰っちょります。もちろん、下の新地の得月楼下店とかで呑んだ場合もそうです。しかし、多いのは、種崎とか長浜方面に船で行った際、ここまでモンて来て電車に乗って帰っちゅうがです。例えば8月13日。
お昼の11時頃、農人町、つまりこの写真から堀川をさかのぼった所で「川一丸」という大屋形船に乗りました。で、ここ、得月楼前で芸者さん2人と友人を乗せ、種崎へ。そこで一日ゆっくりしちょります。長浜から芸者4人呼んじゅうががなかなか贅沢。そして。こっから原文。
九時頃解散。田中、山崎と共に大屋形にて帰る。闇の水上の趣甚だ快し。五台山沖あたりにて月出づ。十一時頃新地より電車に乗り帰寓。
こんな感じです。夜11時に、まだ、高知向けての電車が走りよったがも驚き。当時、高知港の桟橋は、もう既にできちょりまして、馬場孤蝶さんも、室戸丸で神戸から高知桟橋に到着しちょります。が、湾内の水上交通は、どうやらここが起点になっちょったにかありません。
高知港桟橋ができたがが明治37年。電車は、それに合わせて桟橋まで引かれました。しかしそれまでは、たぶんここが海の玄関。その海の玄関口に料亭遊郭が並び、下の新地が形成されていった、という順番やったがでしょう。電車がここまで引かれたがは、新地の客と船の利用客と両方の便のためやったことが推察されます。
馬場孤蝶さんが、高知滞在の一ヶ月半の間に、ここでビッシリ船に乗り降りし、電車で往き来きちゅうがを見ても、この場所の役割がよう解ります。ここ下の新地で飲みよっても、夜中12時くらいになると、宿まで歩いて帰っちょります。さすがにもう電車は終わっちょったがでしょうか。