野市開発と長宗我部遺臣〔2948〕2011/05/12
2011年5月12日(木)雨
昨夜は結構降りました。台風は熱帯低気圧になったにかありません。
さて、ここは、ひまわり乳業の北側、物部川の橋を東へ渡ったところ。野市。現江南市野市。この写真の道のしゅっと北側を道路が走り、この西の「物部川橋」で南国市とつながっちょります。その橋が完成したがは平成6年。それまでは、この道が使われ、この西に物部川を渡る橋が架かっちょりました。つまりこれは旧道。今は、この西の物部川に突き当たって行き止まり。橋の痕跡もありません。
この橋脚の下は「堀川」が流れ、この小さな橋の名称は「堀川橋」。ご覧のように、大正14年4月架橋と書かれちょります。と、いうことは、大正11年に高知から安芸まで自動車で行った馬場孤蝶さんは、この橋が完成する3年前にここを通っちゅうということになります。その当時はもっと簡略な橋が架かっちょったでしょうか。
この道を東へ行くと、野市の中心部。西町、中町、東町とあります。野市は河岸段丘の上の、海抜の高いところ。台地の上、という表現もします。で、野中兼山さんが開発するまでは野であった、という話はビッシリ書いてきました。それも「荒野」やったそうです。香美郡誌には「渺々(びょうびょう)たる原野にて、ただ、草木のみ繁茂して鹿場なりし」と書かれちゅうばあ荒野。
野市は、どうやら、野中兼山さんの養父、野中直継さんの知行地やったので、兼山さんも開発しょう、という気になったらしいです。偶然やったがかも知れません。しかし、台地の荒野とはいえ、灌漑用水さえ通したら藩内有数の肥沃な農地になることが、兼山さんにはわかっちょったがでしょう。
寛永18年(1641年)に、まず、こっからとっと上流、土佐山田に「町田堰」を構築、そして1644年までかけて、用水を整備しました。それが三叉を擁する野市上井(うわゆ)。1664年の下井の完成で、兼山さんの野市開発は完了しました。
荒野に市がたつほど賑わうようになって「野市」。正保元年(1644年)の上井完成に際し、旧長宗我部家臣100人を郷士に取り立て、野市に住まわせて開拓にあたらせた、ということ。ですきに、野市発展のルーツは長宗我部遺臣、とも言えるがです。