吉良城址〔291〕2004/02/01
2004年2月1日(日)晴れ
今日から2月。暖かい気持ちの良い日曜日になりました。
ひまわり太郎は、最近カロリーオーバー気味の身体を絞るべく、リュックに着替えを押し込んで少し遠くまで走ってきました。市内中心部のひまわり乳業本社を出発、鏡川を遡行して紅葉橋へ。そこから土佐道路へ出てひたすら西に向かって走ります。荒倉トンネルを抜けると春野町。春野町の弘岡地区で、今日のお目当ては「吉良城」でした。吉良氏は、にっこりひまわり[241]でもご紹介しました源希義(頼朝の弟さんですね)の子孫と言われる一族で、中世、土佐守護として勢力を伸ばした細川氏と関係が深かったと言われちょります。
吉良氏は、文化的な事業を多々行っており、他の土佐の武将達とはひと味違います。
16世紀初頭には、周防国(山口県)から「南村梅軒(みなみむらばいけん)」という宇宙人倫の根本原理の大義を説く高邁な理想の儒学者を招き、「南学」という独特の学問、死生を越えてひたすら本当の道を求めようとする学問を起こしました。吉良宣経という名君の誉れ高い武将ですね。その子の宣直が、にっこりひまわり[228]でもご紹介した戦国武将本山氏に破れ、吉良氏は滅亡の危機に瀕します。その落城の際、壮烈無比な行動で、南村梅軒の教えを実践します。その思想は、本山氏に替わって土佐に覇を唱えた長宗我部元親の軍団に引き継がれ、浦戸一揆につながっていったんですね。
南学の思想は、江戸時代も脈々と土佐藩を中心に受け継がれ、怒濤の明治維新に突入していったのであります。
尚、長宗我部元親が、滅亡に瀕した吉良氏に、自分の弟親貞を養子に入れて吉良親貞とし、西で勢威を誇る一条氏の押さえとしましたが、その子親実の代に、元親の跡継ぎ問題でもめて、結局切腹してしまうことになりました。このお城も廃城になったんですね。
今朝は、地元の人に道を聞きながら、この山に登ってみました。昼尚暗きうっそうとした竹薮を過ぎると、落葉樹の生い茂った急な山道になります。そこを、かなり急な坂をしばらく登り、やっと詰の段に到着しました。樹木の茂り方がすごいので、詰からの景色も期待できんな、城跡に残る「思い」だけでも感じることができたらいいな、と思いつつ登ったんですが、頂上からは感動的に春野の平野と遠くに太平洋を見渡すことができました。
数奇な運命を辿った吉良城の、「強者どもの夢の跡」でした。
さて、その吉良城を下りて、一級河川仁淀川の堤防を遡行、波田の手前の「蘇鶴温泉(そかくおんせん)」というとてもローカルで地域密着の小さい温泉につかり、ビールを飲んでおでんを食べてJRの汽車に乗って帰ってきました。
う~ん、充実。