宝永津波と宝永堤と宝永町と高知城下〔2899〕2011/03/24
2011年3月24日(木)晴れたり曇ったり
弊社は海洋深層水のペットボトルなどを製造販売しよりますが、昨日から問い合わせ、発注がすごいことになっちょります。まったくもって製造が間に合いません。申し訳ございません。できる限り製造して参りますが、被災地復興を最優先にしますので、行き渡らない皆様にはお詫び申し上げます。
さて、ここは今朝、夜明け前の宝永町。電車通りの電停から西向いて撮影してみました。このにっこりでも何度もご紹介してきました。宝永町という町名は、宝永4年(1707年)10月の、宝永の南海地震に由来します。
寛永2年(1625年)に、この界隈の南北に堤がつくられました。台風や津波で、海の水がやって来んようにする為に。しかし、宝永大地震で発生した津波はいとも簡単にその堤を破壊し、城下町の方へと達したがです。そこで、その際に再建された、もっと強固で頑丈な堤が、その年号をとって宝永堤と呼ばれるようになり、それが町名になったという訳です。この町名も、言わば津波の痕跡。
宝永の大地震津波では、高知の城下町も 2m~2.5m地盤沈下しました。津波は新月橋の付近まで遡り、南岸を中心にかなり浸水。筆山の下、真如寺前は2mくらいの深さになったそうです。廿代町界隈では2.4m、今の新堀小学校校区は一面の海となりました。武士が住む街として、堤防で囲まれちょった追手前小学校校区も、ほとんど浸水したそうです。
江ノ口川を遡った津波は井口町に達し、小高坂、江ノ口、万々、久万、秦泉寺、薊野は、山際まで浸水しました。古浦戸湾に戻ったような、一面の海になってしもうた訳です。
次の南海地震は、少なくとも宝永地震の規模を想定しちょかんと話になりません。今は安政地震想定やそうですきに、半分の規模。いかんですね。そして、宝永よりももっと巨大なことも想定して、対策と心構えを構築していかんといかんです。
宝永地震の記録は、各地に、かなり詳細に残されちょります。今日の話は、土佐史談224号の論文を参考にしました。堤防とか建物とかが、昔より立派になっちゅうき参考にならん、というがは大間違いで、こじゃんと参考になることが、今回の震災をみるとよくわかります。