難波、なにわ、ナニハと森の石松〔2885〕2011/03/10
2011年3月10日(木)晴れやけど寒うおま
てな訳で今朝は大阪。昨日午後の飛行機でやってきました。で、夜明け前から、淀屋橋から北浜、中之島、そして大阪天満宮界隈をたつくりまわってきました。
大阪天満宮さん、朝からたくさんの善男善女が訪れよりましたですね。今朝は、その境内をじっくりまったり楽しんできました。
大きな拝殿が目立ちますが、白太夫社、大将軍社をはじめ、たくさんの境内社が鎮座しちょって、全部参拝するとかなりの時間が必要。
境内社の他にも、色んな塚や、記念碑も立っちょります。
その中のひとつに、この界隈に、神武天皇が九州から東征してきて上陸したことを記念するものがありました。ご存知のように、太古の大阪平野は、今の大阪湾から入り込んできた丸い湾。その湾の、南側から突き出してきちゅう半島が、上町台地。その半島の北突端が、大阪天満宮界隈ということになります。そう言えば、物部氏の祖であるニギハヤヒさんが最初にやってきたがも、難波崎で、この界隈。いつもの上岡八幡宮の伝説では、難波から大和へ、そして、土佐の上岡山へ石船に乗って飛んできて、今の石船神社方面に飛んで行ったことになっちょります。
さて、その、神武東征難波上陸の案内板には、その頃、この辺の海は波の流れが速く、それで浪速、つまりナニワになって、難波になった、という意味のことが書かれちょります。しかし、難波の由来については色んな説がありますよね。
例えば、魚がどっしこ穫れるので、魚(ナ)の庭(ニワ)ということで難波になった、とも言われちょります。あと、古大阪湾は、生駒山の近くまで広がっちょりまして、湾から生駒山の方面を見るとお日様が昇ってくる、そこがまさしくヒノモトで、当時の朝鮮の言葉で、お日様が昇る庭、という意味のナニハが、なにわになり、難波になった、という興味深い説も最近みました。それぞれ説得力があるような無いような。謎です。
いずれにしても、瀬戸内海を通ってやってきた船は、まずはこの界隈に上陸しよったということは間違いないでしょう。船着き場と言えば、この写真。
この写真は、大阪天満宮から南へ行った、中之島の東の端から東を撮影したもの。ここが中之島の東の突端です。この向こうには、賑やかな船着き場がありました。特に、京の伏見との間を往来する30石船は有名。そう。その右手が八軒家の船着場やった訳です。
以前にも一度ご紹介しました。あまりにも有名な浪曲(そう、なにわ節!)の一節。森の石松が、次郎長親分に頼まれて代参した金比羅参りの帰り、ここ八軒家から京、伏見まで乗った30石船の船中での会話。初代虎造の名調子が耳にこびりついちょりますな。あの、寿司食いねえ、酒飲みねえ、の名調子は、こっから生まれたのでありました。