岡豊高校から大津城を眺める〔2883〕2011/03/08
2011年3月8日(火)晴れ!
ここは岡豊。南国市岡豊(おこう)の、岡豊高校正門東から、南向いて撮影してみました。今日は、ちっくと用事があって、岡豊高校へ行っちょったがです。生徒さんたちは元気で、若い力を頂戴してきました。
ここは南国市ですが、その向こうは高知市大津。丁度境目になっちょります。そこに見えゆう山、手前の右と左に小山があります。その間の向こうにも山が見えますが、実は、あれは全部つながっちょります。手前の山と山の間南へ入りますと、ぐるりと山に囲まれた、結構広い場所になっちょります。大津の関という集落。
googleの写真地図を見たらしゅっとわかりますが、ホントに、見事に山に囲まれ、外部への出口はあの山と山の間の狭い部分だけ、というエリアです。
あの、奥に見える山は「高天ヶ原山」。そんな名前だけのことはあって、古墳やら弥生時代の遺跡やら、古いものがどっしこあります。
あの、奇蹟のように山に囲まれたエリアは、外敵の侵入に強かったと思われ、世相が焦臭うなってきた時代に、人々が住むようになったがでしょうか。山で囲まれた関集落の方を向いて、あの高天ヶ原山の北斜面には古墳もたくさん。以前、タベシマさんから、あそこに住んじゅうヒトは古墳の穴を農機具の納屋がわりにしちょったという話も聞きました。
弥生中期、高天ヶ原山のこちら側の斜面中腹に、高地性集落があったそうです。高地性集落は、軍事的色彩の濃い集落。あそこなら、山に防衛施設をつくり、狭い入り口から関集落へ侵入してきた敵を取り囲んで上から攻めることができますきに、弥生人にとっても魅力的な地形やったがでしょうね。
南国市田村の大弥生集落とも、そんなに遠い訳ぢゃあございませんので、どんな関係やったがか気になります。敵対しちょったか同盟関係やったか。
そんな防御にすぐれた場所ですきに、戦国時代、守護代細川氏の系譜と言われる天竺右近花氏さんは、あの左手の山に城を築いて盤踞しちょりました。しかし、 1547年、長宗我部国親さんが攻めてきてあっという間に陥とされてしまいます。たぶん、軍事力が圧倒的に違うてきちょったがでしょう。岡豊城を出た長宗我部軍は、この平原を疾走して、一気にあの山の天竺氏に攻め込んだがでしょうか。
その戦いから、長宗我部国親元親二代による、土佐から四国制覇作戦が始まったのでありました。
岡豊、大津にも、歴史が満ちあふれちょります。