古代、都佐国造屋敷と条里制と烏帽子山と鴻ノ森〔2878〕2011/03/03
2011年3月3日(木)晴れたり曇ったり
今朝は久々にちくと冷やかったです。日中の気温もメッソ上がりませんが、桃の節句、ひなまつりでございます。
こないだ、伊野のバーガ森北斜面遺跡をたつくりに行っちょった時に、埋蔵文化財センターの研究員の方に教えて頂いた、ちょっとビックリの話があります。ホントじゃおか、とも思うがですが、何せ、埋文の方のお話ですきに説得力あります。
昔の土佐の条里制について。
土佐の、大昔の条里制は、京や奈良とはちょっと違うて、真北から言えば16度だけ西に振った角度で構築されちゅうというお話。なぜか。
それは、南嶺で一番高い標高の烏帽子山と、高知市の北に聳える鴻ノ森を結んだ線が、16度だけ傾いちょって、その線に合わせて条里をつくったがに由来するという説。確かに、グーグルの写真図で見てみたら、その角度に走っちゅう道路が今でも見受けられます。神田界隈の道路もそうですし、万々商店街のまっすぐな道路も、まさにその角度でつくられちょります。烏帽子山と鴻ノ森は、太古の昔から特別なランドマークやったがでしょうか。
そんなことを考えながら、その、烏帽子山と鴻ノ森を結ぶ直線上から烏帽子山を撮影してみました。土佐道路の四国銀行さんの駐車場。こっから電車通りへ出て、直線上に立ってみますと、旭小学校のちょっと東でした。ここで何かが記憶を刺激します。う~ん。たしか、この界隈にカクソという小字名が残っちょって、それが、太古の昔、都佐国造(とさのくにのみやつこ)屋敷があった名残で、コクゾウが訛ってカクソになったがやという話。
国造は、大和朝廷の、地方官の名称。律令制が導入されるに従い、無くなっていった官制ですきに、旭に国造屋敷があった時代は、7世紀頃ということになります。
さて、その旭のカクソ界隈に国造屋敷があったとして。
その界隈で、北と南を眺めてみますれば、まさしく、烏帽子山と鴻ノ森を結ぶ直線上ではありませんか。その屋敷があって土佐(都佐)の行政センターであったとするならば、大化の改新があって律令制が導入される時期、その行政センターを中心に、北と南のランドマークを結ぶ線を使うて条里制が導入された、と考えても不思議ぢゃあないですよね。いや、まったくの妄想ですが。
今日は仕事中で、じっくりたつくれませんでしたので、今度、都佐国造を考える日を一日設けてたつくってみたいと思います。
ところで、埋文の研究者の方は、もうひとつ、興味深いランドマークをおっしゃっておりました。それは、鴻ノ森と、ひまわり乳業の東、野市にある三宝山を結ぶ線。その線に沿うても、条里がつくられちゅうというお話。これは、まだよう検証しちょりません。次回のお楽しみです。