吾岡山、熊野神社の急な石段と長宗我部さん〔2854〕2011/02/07
2011年2月7日(月)うっすら雲もでちょります
冷え込みがグッと緩み、日中、お日様の下にでると汗ばむくらいになってきました。もう春です。
ひまわり太郎の通勤途上には、色んな神社や祠などがあります。どれをご紹介したら良いか迷うくらい。ここは、南国市大そねの、吾岡山の南斜面、こじゃんと急な斜面に鎮座まします熊野神社。拝殿前から、急な石段と鳥居を撮影してみました。
南国市には、おもだったものだけで、小籠、蒲原、久礼田、そしてここ吾岡山に熊野神社があり、どれも、明治になるまでは三所権現さまなどと呼ばれて尊崇されてきました。
権現さま。熊野の修験道に連なる、神仏習合の姿が、ここにも見受けられます。こっから東へ行くと、田村に王子権現さまが鎮座するなど、熊野や修験道の薫り高い通勤路でございます。
ここの熊野三所権現さんは、その由来がハッキリしちょります。天正3年(1575年)、長宗我部元親さんが、伊予よ阿波に軍勢を出す際に、必勝を祈願して熊野から勧請してきたがやそうです。元々、この急坂にきれいな石段は組まず、紀州熊野の乱築工法に倣うての、巨石を乱雑に組み合わせた急坂にしちょったそうです。これは、修験道の本場の名残でしょう。権現さまにお参りするがも修行のひとつやった訳で。想像するだに、こじゃんと登りづらい急坂やったと思われます。しかしそれでは誰でも参拝する、というのに支障を来すので、昭和62年、このように、上りやすい石段に改修したのでありました。一番下の部分に、乱築工法の痕跡が残っちょりますが、なかなかのモンですな。
ところで長宗我部元親さん、戦国時代の雄ということで、信長のようにドライなイメージがあるかも知れませんが、実はかなり神様仏様を大切にしちょります。元親さんが再建したり勧請したり、立て直したりしたお宮さんはどっしこ。戦勝祈願や戦勝報告したお宮さんもどっしこ。その度に、色々と寄進されちょります。
そう言えば、元々、長宗我部家は、中世、五台山吸江寺の寺奉行をやりながら勢力を伸ばしていったがやったですね。神社でもお寺でも権現さまでも、とにかく信仰心が篤かったことは間違いないようです。