文化行政とは〔2749〕2010/10/25
2010年10月25日(月)曇り
昨日の夜は、区民運動会の打ち上げでした。だもんですきに、昨夜の龍馬伝は、まだ見ちょりません。「船中八策」というタイトルがついちょりましたので、そんな内容やったがでしょう。
まだ録画も見ちょりませんきに、知らんがですが、かの長岡謙吉さんは登場しちょったでしょうかね。亀山社中が海援隊になった頃から合流し、その文書作成能力が認められて活躍した長岡謙吉さんは、龍馬さんが述べた新政府の基本理念案を、船中八策というかたちで見事に文章化した重要人物。
その後、山内容堂さんが後藤象二郎くんを使ってやった大政奉還の建白も、その原文を起草したがは長岡の謙ちゃん。もっとスポットライトが当てられたちかまん人物。
ここはその生家跡。はりまや橋からしゅっとの場所で、現在は得月楼さんの駐車場になっちょります。残念なことに、ここには、長岡謙吉さんの生家跡という案内は、一切ありません。何故かわかりませんが、これはかなり重要な錯誤のような気がします。
このしゅっと北隣が河田小龍さんの家で、小さい頃からその知識を吸収、長崎ではシーボルトの弟子になるなど、西洋医学の先駆者でもあり、大津の鹿児とか、この場所とかでも開業しちょったそうです。その後再び脱藩、長崎で海援隊士になり、活躍したがはご承知の通り。
明治になって、新政府で活躍を始めたばっかしの明治5年、39才で亡くなっちょります。もし、もっと長生きしちょったら、その才能から言うて、明治新政府で重要な役割を果たしちょったがは間違いないですろう。
亀山社中、海援隊の俊才は、近藤長次郎さんにせよ、長岡謙吉さんにせよ、沢村惣之丞さんにせよ、新政府で活躍する前に斃れちょります。残ったがでは陸奥宗光くんが有名。
さて、こういった重要な場所、船中八策を文章に纏め、大政奉還建白書を起草した長岡謙吉さんの生家、塾跡に案内看板がまったく無いという状態は、他の龍馬「伝」がらみの施策に比較して、いかにもいかにもいかにもいかにも。