新宮馬之助さんが描いた絵馬〔2732〕2010/10/08
2010年10月8日(金)朝は曇っちょります
こないだのにっこりで、野市、新宮で生まれた海援隊士、新宮馬之助さんのご紹介をしました。そこにも書きましたが、新宮の熊野神社の社殿に、新宮馬之助さんが16才の時に描いて奉納した絵馬があるとのこと。社殿の閉じられた格子戸から暗い室内を覗くと、絵馬が全部で4枚見えますが、正面の一番目立つ場所に掲げられちゅうががこの写真の絵馬。で、格子にカメラをつっこんで写真に撮り、右下の署名を拡大してみてみましたら、どうやら「新宮維駿謹書」と読めます。これですな。海援隊で龍馬を助けて活躍した新宮馬之助さんは、画号を「維駿」というそうですきに。
この躍動感溢れる絵馬が、馬之助さん16才の時の作品と言うことは間違いなさそうです。絵が上手ということで、お城下に住む画家、河田小龍さんに弟子入りしたがも16才の時とされますきに、この絵が、小龍さんに入門する前に描いたものか入門後に描いたものかは微妙なところ。
しかしあれですね、こないだも描きましたが、河田小龍門下生、恐るべし。亀山社中一の俊才と思われる近藤長次郎さん、船中八策や大政奉還建白を文章化した海援隊士長岡謙吉さん、そしてこの新宮馬之助さんが有名なところ。全員、龍馬にとって大切な同志。小龍さんの本業は画家ですけんど、上記3名のうちで小龍さんに絵を習うつもりで入門したがは馬之助さんだけと思われます。
面白いのは、この3名、全員もともと職業武士ぢゃあないがです。長岡謙吉さんのお父さんはお医者さん、近藤長次郎さんはご承知の通り饅頭屋さん、そして馬之助さんはお百姓さんの倅。こういった面々が小龍門下生になり、明治維新の原動力となっていったことを考えると、感慨深いものがあります。
ちなみにこの熊野神社、文禄と言いますきに秀吉天下の頃、楠がビッシリ揺れ動き、その楠の枝に白い御幣をくわえた白い鳥がとまり、飛び立つときにその御幣を落としていったので、そこに祠を建てたがが始まりという伝説があります。もっとも、長宗我部地検帳にでてきますきに、その前からあったがが事実にかありませんが。