淡路島は阿波路島で、阿波国でした〔2718〕2010/09/24
2010年9月24日(金)晴れちょります
ここは鳴門海峡。ちくと淡路島へ行っちょりまして、その帰りの車から撮影してみました。左手の下に見えゆうがが、渦潮で有名な鳴門の海峡。向こう側に徳島県が見えよります。
淡路島は、藩政期、阿波の蜂須賀家の支配下に置かれ、蜂須賀の重臣、稲田氏が治めました。その立場はこじゃんと強く、稲田氏はあたかも大名のようやったそうです。
龍馬伝の時代、蜂須賀家は幕府方につき、稲田氏は尊皇攘夷の方につきました。
このまま維新を迎えた訳で、普通やったら稲田氏が新政府でも重用されるところ、不思議なことにそうはならんかったそうです。
蜂須賀の家臣達は士族となりますが、稲田氏の家臣たちは、陪臣ということで、士族に列することができんかったのでありました。こりゃあ不平不満がたまりまくります。不穏な動きを見せる稲田氏の旧家臣たちに危機感を強めた蜂須賀旧家臣は、明治3年、淡路島の洲本と阿波の脇町で稲田氏を襲うたのでありました。これはちくとまずかった。
稲田氏家臣達は北海道へ開拓に出され、蜂須賀家臣たちには死罪等の厳しい処分が下されたのであります。これが世に言う庚午事変。なにやら悲しいお話ですな。
で、結局、これが契機となって、明治9年に淡路島は兵庫県に入れられました。
あの時、蜂須賀家臣たちの軽率な行動がなければ、今頃淡路島は徳島県やったかも知れません。
淡路(あわじ)というがは阿波への路、ということらしいですきに、歴史的に見ても徳島になるががホントでしょう。歴史は、ちょっとしたことで大きく変わっていくのでありました。