下の新地、稲荷神社玉垣に隠された歴史〔2699〕2010/09/05
2010年9月5日(日)今日も暑いです
9月になって5日目になりますが、まだまだ猛暑。外を歩くと汗が噴き出してきますな。すごいもんです。
ここは高知市内、現在の二葉町に鎮座まします土佐稲荷神社さん。この界隈、明治から大正、昭和初期にかけて、稲荷新地と呼ばれる大歓楽街でございました。堀川が浦戸湾に流れ込む場所で、浦戸湾の島、丸山台にも料亭、温泉場があったという話はビッシリ書いちょります。
さて、この土佐稲荷神社は、山内の殿様が勧請してきた由緒あるお稲荷さんですが、明治になって以降、この界隈の歓楽街、いわゆる「下(しも)の新地」とか「稲荷新地」とか呼ばれた地域の守り神として尊崇されることとなります。
このしゅっと東に、知寄町二丁目から別れて南進してくる土電の電車の停留所があったというお話もしました。それっぱあ賑やかやった訳です。
料亭遊郭だけではなく、芝居小屋もたくさん出来て、明治の頃には自由民権運動の演説会が開催されたりもしちょります。
映画「陽暉楼」で舞台となった料亭は、得月楼という名前も持っちょります。元々が陽暉楼で、西南戦争とかでも活躍した谷干城さんが得月楼という名を付けた、という話はご承知の通り。で、得月楼は、現在もはりまや橋のしゅっと東に店がありますが、あの場所が本店、上町の西の玉水新地に上店、そしてこの稲荷新地に下店を構える大きなお店でした。
左手に玉垣の端っこが見えちょりますが、前の柱に隠れるように「得月楼」と書かれちゅうがが見えますろうか。この玉垣には、土佐の繁華街の顔役鬼頭良之助さんなどの名前がたくさん書かれちょります。いつご寄進されたか書かれちゃあしませんが、たぶん大正期。
こちらの玉垣の一番端の大きい柱に「得月楼」、鳥居を挟んで向こう側の、こちらと対を為す玉垣の大きな柱には「埋立新地 泉厳楼」と書かれ、この界隈で栄えたと思われる料亭遊郭の名前が一番目立つ場所に書かれちゅう訳です。
ところが、ご覧の通り、その「得月楼」と「泉厳楼」の名前を隠すように、大きな石柱が建てられちゅうがです。この石柱のご寄進された年月日が刻まれちゅう場所には、今は「土佐稲荷神社」という大きな看板が貼付けられちょって見えません。たぶん昭和の、戦争の雰囲気が濃くなってきた頃やないでしょうか。違うかも知れませんが。
戦争の時代に入り、稲荷新地行きの電車も休止となり、この歓楽街も火が消えて行ったことでしょう。玉垣の寄進者名も、個人名はともかく料亭遊郭の名前が正面に目立っちゅうがはケシカラン、ということで、その名前を隠すように石柱がご寄進された、ということは十分に有り得る話。
藩政期から明治大正昭和初期、戦争、そして戦後の海運華やかな復興期、色んな時代をくぐり抜けて来た歴史が、玉垣の名前や配置とかで想像できますな。