饅頭屋長次郎さんは、幕末土佐きっての俊才〔2686〕2010/08/23
2010年8月23日(月)晴れ!
ここは高知市上町、未明の近藤長次郎邸跡。昨夜の龍馬伝で、凄絶に切腹した近藤長次郎さんは、天保9年(1838年)、この場所にあった餅菓子製造業「大里(おおり)屋」に生まれました。向こうの信号の横が龍馬の才谷屋本家で、龍馬はこっから東へ歩いて5分かからんクに住んじょりました。
長次郎さんの叔父さんという人物が教育熱心で、安政の地震で焼け出された、あの河田小龍さんを自分の関係する空家、こっから南へ行った鏡川の畔の空家に住むよう斡旋しました。
で、俊才の誉れ高い長次郎を学ばせた訳ですが、そこへ近所に住む坂本龍馬が尋ねてきて、小龍先生から世界のことを学んだということです。以前にも書きましたが、小龍先生はジョン万次郎さんから、諸外国のことを詳細に取材して、こじゃんと詳しかったがですね。ですきに、龍馬が世界に目を向けたきっかけが、長次郎さんの叔父さんのおせっかいやったということも言えます。
さて、岩崎弥太郎塾とかで学んだ長次郎さん、江戸へ出て学問し、またまたこの近所に住んじょった刀鍛冶、左行秀(さのゆきひで)さんの紹介で勝海舟門下生となったのでありました。恐るべし、上町人脈。
饅頭屋ですきに、土佐藩は彼の事をひっくう見ちょった訳ですけんど、勝門下の俊才ということでたくさんの藩から召し抱えたいという申し出があり、慌てた土佐藩が武士としてとりたてたという逸話もあります。
龍馬の生まれたまち記念館には、長次郎自筆の奥さんに送った手紙と、大里屋で使用しよった、出来上がった饅頭を並べる台が展示しちゃありましたが、今はどうなっちゅうでしょうか。こじゃんとキレイな字を書く人物として印象に残っちょります。頭が良かった上に教育が行き届いちょったがでしょう。
龍馬の生まれたまち記念館へ初めて行ったとき、一番感動したがが、この手紙と饅頭台でした。ホンモノは迫力が違いますきに。
その有能さや長州とのコネクションから見て、もし海外留学に成功して明治まで生き残っちょったら、間違いなく新生ニッポンの中心人物なっちょった近藤長次郎さんは、ここで生まれました。