それぞれのひょっこりひょうたん島と関ヶ原の執念〔2683〕2010/08/20
2010年8月20日(金)晴れちょります
今日も素敵に暑い高知県地方。ここは、南国市の高知東道路沿い、レストランゆず庵さんの駐車場。こっから、岡豊の山がご覧の通り真正面に見えます。
ゆず庵の社長さんは、高知の街をアラブの怪人になったりチョンマゲの怪人になったりして歩きよったり、面白いメニューで全国放送のテレビに出たりしゆう有名人。恥ずかしながら(恥ずかしがるこたーないですが)友人で、ビッシリ飲みに行ったりしよります。いやいや楽しい人物ですね。
さて、以前、人にはそれぞれのひょっこりひょうたん島がある、という話をしたことがあります。そのなかで友人のタベシマさんが挙げたのが、この岡豊山。まこと、こりゃあひょうっこりひょうたん島そっくり。タベシマさんにとってのひょっこりひょうたん島は、この岡豊山やったらしいです。
このひょっこりひょうたん島は言わずと知れた戦国武将、長宗我部一族が本拠とした山。こっから、四国をほぼ統一するまでに成長したのでありました。
こないだ、関ヶ原の古戦場跡で、石田三成さんの本陣があった場所に立ち、色々と妄想しました。あの合戦で、石田三成さんの言うことを聞かんかった西軍の軍勢は、島津と毛利と長宗我部。どんなに徳川を討てと言われても動きませんでした。どうしても動かんかったがが、260年経過した幕末、島津の薩摩と毛利の長州と、そして長宗我部軍の末裔たる土佐の郷士がやっと動き始め、徳川を討ちました。それが明治維新であったという妄想。
関ヶ原で発せられた徳川征討の命が、260年の時を経て実行された訳です。そんな風に妄想してみると、ニッポンの歴史も色んな感じに見えてきます。明治維新は石田三成の執念であった、というがは言い過ぎ。関ヶ原で果たせなかった打倒徳川の思いが、260年後、270年後に結実したがが明治維新、という言い方はできるかも知れませんね。