幕末の山田橋ではいろんなドラマが〔2579〕2010/05/08
2010年5月8日(土)快晴!
良く晴れました。今日明日の土日は晴れて、明後日の月曜からまた雨の予報。こないだうちの連休から、休みの日は良いお天気になりゆうがが嬉しいですね。今日も暑うなりそうです。
ここは高知市内の山田橋。このセメントでできた橋、いつ造られたものかは知りませんが、なかなか風情があります。江ノ口川のこの場所には、藩政期から橋が架かっちょりました。この南側一帯が、山田町。長宗我部元親さんが、一時現在の高知城の山に本拠を移して城下町をつくろうとした際、現在の土佐山田から住民を移してきたので山田町。
この橋は参勤交代の道でもあり、いわば、高知の城下町から他国へ行くメインストリートの入り口やった訳です。ですきに、番所も置かれ、牢獄もありました。
龍馬伝で宮迫くんが熱演する平井収二郎さん、土佐勤王党で活躍した平井収二郎さんは、容堂侯の逆鱗に触れて切腹させられます。ドラマではもうまあですね。土佐へ強制送還になって入れられた牢獄は、ここの山田町牢獄で、ここで切腹させられた訳です。満28歳の若者でした。で、その時には収二郎さんも入れて3人切腹させられちょりまして、その模様を番所の塀によじ登って見学した少年が居ました。満16歳、中江篤介くん。後の思想家、東洋のルソーと言われた中江兆民さんです。
篤介くんの家は、この写真中央の白いビルの、もうちょっと右手。しゅっとそこやった訳で、家のすんぐそばで切腹させられる勤王党員を見にいったがですな。後に「平井収次郎君切腹の現状」という文章を残しちょりまして、「三人の中にて最も巧に自殺せしハ、平井収次郎氏なりき」と書かれちょります。
この切腹は文久3年6月9日で、まだ8月18日の政変はおこっちょりません。ですきに、武市半平太さんはまだ京で活躍しよりました。武市道場は、写真左端に見えゆう最近できてしもうた大きな橋を南へ200mちょっと行き、左折してしゅっとの場所にありました。8月18日の政変後捕らえられ、今の四国銀行帯屋町支店のクにあった南会所で翌年切腹となった半平太さんは、結局、その道場やこの界隈には帰って来れんかった訳です。
あの岡田以蔵くんの家は、この橋の南詰から西へ5軒目。ですきに、番所の前を通って武市道場へ通いよった訳で、以蔵くん満17歳の秋、よさこい節にうたわれた純信お馬がここで晒し者にされた時、前を通りかかった可能性はこじゃんと高いのであります。同年代で美人の誉れ高いお馬さん、見てみたかったがやないでしょうか、以蔵くんも。