お宮さんや祠やお地蔵さんに込めた思い〔2504〕2010/02/22
2010年2月22日(月)晴れ!
今日は平成22年2月22日という2並びの日。記念切符とか記念イベントとかをあちこちでやりゆうにかありません。
さて、そんなことには関係なくここはいつもの上岡八幡宮。上岡山の南東斜面に鎮座する拝殿に向こうて進むひまわり太郎。足下には神聖なる石。ここにお供えしたり、使用後のお札を返却したりします。この石には弘化四年未八月十五日と刻まれちょりますきに、今から163年前の1847年の中秋の名月の日。そんな満月の夜にご寄進され、ここでお祀りをやったことでしょう。満月を眺めながらおきゃくをしたかも知れません。
このお宮さんは氏子さんの範囲も広く、古くから尊崇されてきたお宮さんですきに、なにかと言えば賑やかに集まったと思われます。
こないだうち、神社が県有地とか私有地とかに建っちょって、使用料を取りやあせんがはケシカランみたいな話がありました。これは、宗教の話と歴史文化民俗の話がごっちゃになっちょって、意味がわからんなっちょります。
神社は、宗教的な施設である以前に、地域のコミュニティの中心でありつづけて来ました。例えばここ上岡八幡宮では、お正月には氏子さんたちが集まって拝殿横の座敷でおきゃくをしよります。これを宗教的な行事を思うちゅうヒトはメッソ居らんがやないでしょうか。
別に、ニッポン人やったらアマテラスオオミカミを尊崇すべきである、とか言うつもりは毛頭無く、もっと自然に、地域の紐帯としてのお宮さんやお寺さんを大切にするがは大切なことやないろうかと思うだけです。
道端の祠やお地蔵さんに込められた人々の思いは、その前にたたずんでみるだけで理解することができる気がします。そんな心を大切にするがと、宗教施設を県や市有地に置くがはケシカランという議論とは全然違う次元、世界、空間の話ですよね。