介良荘の成り立ちと源希義さんの立ち場〔2456〕2010/01/05
2010年1月5日(火)晴れ!
今日も良いお天気。
ここは通勤途中の介良(けら)。介良川に架かる城山橋という橋の上で撮影してみました。まだ真っ暗い時間帯ながですが、カメラのシャッタースピードを遅うして、こんな写真を撮ってみました。
この欄干に掲げられちゅう家紋、これは以前にもご紹介したことのある、源希義さんの家紋、ささりんどう。一昨日のにっこりでもご紹介した、源頼朝さんの同母弟、希義さんは、、1160年、平治の乱で父の源義朝さんが負死した後、土佐へと流されました。兄の頼朝が伊豆へ流されたように。当時8歳くらいやったと思われます。
で、このにっこりでの考察では、この介良界隈が源家ゆかりの伊豆走湯山の荘園やったのでここに来たがやないろうか、という推察をしちょりました。が、たぶん全然違うことがわかったのであります。
最近の研究で、この界隈もどうやら平家方の荘園やったらしいという説が有力になってきた、と、今月号の「土佐史談」の論文にありました。それによりますれば、ここは平家方の荘園として古く成立しちょって、源平合戦で源氏が勝利した後「平家没官領」となって頼朝に与えられた所領にはいっちょったがやないろうか、と。成る程。なかなか説得力があります。
と、いうことは、希義さんは、平家方の勢力の真ん中に流され、蟄居させられちょったと見るがが普通でしょう。で、流されてから20年後の治承4年(1180年)、伊豆で頼朝が挙兵したがに呼応して兵を挙げようとして、土佐の平家方の有力者、蓮池家綱さんや平田俊遠さんに年越山で討たれた、ということになる訳です。平家の管理下から脱出し、源氏方の夜須七郎に合流しょうとしに行きゆう途中のことやった訳ですね。
思いこんじょった事が、実は全然違うちょったということで、やっぱし日々勉強せんといかんですな。思いこんだらいけません。