洞ヶ島探検〔2445〕2009/12/25
2009年12月25日(金)晴れ!
てな訳で、今朝は洞ヶ島(ほらがしま)。古代、土佐国の浦戸湾は今よりずっと広く、7つの代表的な島が美しい内海でした。その7つはいろんな数え方があるがですが、いずれにしましても、ひまわり太郎がまだ探検してない島または島跡が2つ残っちゅう、というお話を昨日しました。そこで今朝は、その残された一つ、洞ヶ島跡と思われる場所を探検してみました。ご存じ薫的神社。
ビッシリご紹介しちゅう通り、藩政期初期にその寺の格を巡って山内氏ゆかりの真如寺と争い、遂には捕らえられて山田橋の牢で舌を噛み切って憤死したとされる薫的和尚さんを祀っちょります。
明治までは瑞応寺というお寺さんで、廃仏毀釈で神社になりました。お坊さんをお祀りしちゅうという珍しいお宮さん。
しかしすごいですね、朝から。訪れる参拝者は途切れません。地元の皆さんにこぢゃんと尊崇されちゅうことはよく判ります。その本殿の北側が岩山になっちょりまして、その上に薫的さんのお墓のお堂が祀られちょります。最初は小高坂につくられたお墓ですが、お殿様一族への祟りが続くので、この岩山の上に遷座して、お祀りしたがが、「くんてきさん」として地元の皆さんに親しまれゆう薫的神社のはじまり。
境内には興味深いものがたくさん。「鬼龍院花子の生涯」に出てくる侠客、鬼龍院政五郎のモデルとなった鬼頭良之助さんの百度石もありました。この方の百度石や玉垣、潮江天満宮とか九反田地蔵尊とか土佐稲荷神社とか、いたるところにありますな。
あと、藩政期に山田橋にあった牢の建物も、ここへ移築されちょります。この中で、薫的和尚は憤死された訳です。
さて、墓所が移設されたという岩山がこの正面の山。お墓のお堂の向こう側には、その他にも古いお墓の石塔がいくつか。古くからの山であることがわかりますきに、ここが浦戸湾七島のひとつ、洞ヶ島やないかと思われます。
あと、探検してないがは玉島のみ。いつか行ってみたいもんです。