天竺右近花氏さんは、こっから岡豊を睨みました〔2417〕2009/11/27
2009年11月27日(金)晴れ!
今日は朝から、東向きの県外ナンバーの車が多いです。カシオのゴルフですな。盛り上がっちょります。
さて、昨日、城八幡のお話をしました。城八幡で立派なお社は、ということで思い出したのがここ。大津の、大津城趾にある城八幡。戦国期、守護代細川氏の流れを汲むと言われる天竺氏が居城としたお城、大津城。今は長い長い石段がありまして、ふうふう言いもって登ると、なかなか雰囲気のある頂上に着きます。外灯が所々に灯っちょって真っ暗ではありません。
が、この暗い頂上に一人でたたずむと、ちょっとゾンゾンします。
この目の前を現在は舟入川が流れちょります。藩政期に野中兼山さんが整備して舟入川になった訳で、天竺さんの時代は、明見川が流れちょったものと思われます。その水運の利を武器に、この界隈一帯を支配しちょった天竺氏。
戦国の時代、天竺氏が対峙しちょったのは岡豊の長宗我部氏。元親さんの父、国親さんが、着実に力を付け、岡豊の山から長岡郡を支配しちょりました。その岡豊の山は、この大津の山の正面に見えます。まだ暗い時間帯ですが、正面、山の中腹みたいな所に灯りが見えます。あれが、県立歴史民俗資料館の灯りでしょう。つまりあそこが岡豊城。向こうからも真南に天竺右近花氏さんの大津城が見える訳です。で、1547年頃、長宗我部国親さんは、ついにこの大津城へ総攻撃をかけました。花氏さんは破れ、長宗我部氏の破竹の進撃がここから始まったのでありました。
当時は本山氏が朝倉城を拠点に巨大な勢力を持ち、このまま土佐の覇者になる勢いやったですきに、長宗我部国親さんの、こっから本格的に始まった快進撃が土佐の勢力図を大きく塗り替えていったということ。
城八幡のある詰の段で、岡豊方面を眺めると、何故国親さんがここを攻め滅ぼそうとしたがか、しゅっと理解できます。とにかく正面に見えるがです、岡豊山が。