野中兼山さんの別邸、終焉の地〔2410〕2009/11/20
2009年11月20日(金)快晴!
昨夜は山田で飲みよりました。香美市で活躍しゆう皆さんとか酪農さんとか。で、土佐山田駅に自転車を置いて、汽車でインだもんですきに、今朝は汽車で山田まで行き、そっから自転車で出勤しました。
ですき、今までご紹介したことのない、重要スポットからの今朝のにっこりです。
山田の街から、長岡台地を下ってちょっとの平野に、このスポットがあります。藩政期初期、土佐の基盤整備を積極的におこない、幕末に全国で活躍できる素地をつくった張本人、野中兼山さんの終焉の地。
ここに兼山さんの別邸がありまして、ここを根拠地にして、山田堰や舟入川を初めとした数々の用水路、農地開発工事をやったのでありました。
かなりガイに、大規模土木工事を推進したので、結構敵もつくってしまい、政敵に糾弾されて失脚、この場所の別邸で隠棲されたそうです。そして寛文3年12月、この地で没しました。何とまだ49歳の若さ。あの夥しい基盤整備工事を、凄まじいペースでやったことがわかりますな。いや、すごいもんです。
この前の水路も、当然のことながら、山田堰から引かれた用水。この界隈をたつくると、水量豊かな水路が縦横無尽に走っちゅうががわかります。この広大な優良農地は、兼山さんの意思のタマモノですな。
こっからしゅっと西に、時光石宮さんというお社があります。地元では「とっこいし」さんと呼ばれるお宮さん。玉垣には、時計屋さんの名前がずらり。「時」の神様という訳です。この時光石さんのご神体は、日時計になっちょった石。ご祭神は野中兼山さんと刻んだ石柱が立っちょります。兼山さん、その時光石で時間を測定し、土木工事をおこなう人夫さんに、ホラ貝で時間を知らせよった訳ですな。なるほど。兼山さん、かなり合理的思考をする理科系の土木技術者やったことが偲ばれます。