しずかにたたずむ上岡八幡宮〔2401〕2009/11/11
2009年11月11日(水)朝は雨
昨夜はまあ、こぢゃんと降りました。その上あの雷。しばらくの時間鳴り続けよりました。1発は、間違いなくひまわり太郎の住む建物に落ちたかと思えるくらいの凄さでした。が、家族は爆睡で気付かんかったそうです。ある意味、それも凄いです。
さてさて、このところ潮江天満宮、土佐神社ときましたので、本日は上岡八幡宮。まだ真っ暗い境内を、ほんのりを灯りの点いた拝殿目指して歩きます。この雰囲気。目に見えない何かが、この上岡の山全体を蔽うちょりますな。
以前からお話しゆうように、この物部川沿いの小山は、古い信仰の匂いがします。物部氏の勢力下に入った豪族の古墳があるがかも知れません。高知の古墳は、だいたいが6世紀後半と言われますきに、中央では物部氏が衰退に向かう時期。中央と土佐はどんな関係にあったがか想像が膨らむところです。
そんな昔の日本とも関連するがですが、昨日の大ニュース、ご覧になりましたでしょうか。ひまわり太郎にとって、昨日の一番大きなニュースは、奈良県、纏向(まきむく)遺跡で、大きな建物跡が見つかったというもの。邪馬台国大和説が、かなり有利になった発掘成果ですな。
200年頃の前方後円墳も見つかっちゅう纏向では、卑弥呼の時代と、かなり時代的整合性がとれるようになってきちょります。大和説の弱点は、中国との交易の痕跡が発掘されちょらんこと。それが出てきたら、一気に議論は進みそうですな。
ただ、九州説の方の意見を、今朝の新聞で読みますと、纏向での年代特定に疑問があり、今回の建物は4世紀のものではないか、てな話です。まだ、キチンと年代特定ができちゃあせんがでしょうか。
整理すると、年代特定をはっきりすること、もっと調査して中国とのつながりが魏志倭人伝のようにある証拠を見つけること、これですな。
普通の素人の直感では、ヤマタイコクがヤマトのことで、その後の大和朝廷に連綿とつながっていく、というががこぢゃんと自然。その当時の指導者の女性には、ヒメという呼び名がつくので、それがヒミコになる、というがも自然であるような気がします。歴史は、意外とシンプルながかも知れません。