デンテツターミナルビルの壁画〔2397〕2009/11/07
2009年11月7日(土)晴れ!
てな訳で、ここははりまや橋。昨日ちょっとお話した、デンテツターミナルビルの1階の奥まった所の壁面。この絵が、昨日ご紹介した写真の場所なのであります。この絵は、大黒竹夫さんという方が大正15年に描いたものらしいです。この界隈、その年の1月25日に、土佐郡下知町から高知市に編入されちょります。で、左手中央の建物は編入される前の下知町役場。それを取り囲むとうに建っちゅうのが下知尋常高等小学校やそうです。
昨日の写真の、左手の白い建物、あの場所が、この町役場の場所らしいですね。
ご覧の通り、大正15年の頃は見事な田園地帯。右手が土電の車庫で、荷車が苦労して線路を渡りよります。
この絵画では、トット向こうの方まで田んぼの中を走る線路が描かれちょりますが、明治44年にはもう新地線が開通しちょった訳で、ホントやったら絵の端っこの辺りで右へ折れる新地線が無いといかんような気もします。
明治40年の地図には、こんなまっすぐな道はありません。この北を、まっすぐな幹線道路が通っちょります。葛島橋も、もう架かっちょりまして、高須、大津方面とお城下を繋いじょります。今でも、旧道の葛島橋西詰の所から、電車通りから斜めに分かれて西へ通っちゅう狭い道路がありますよね。あれが幹線。高知城の追手門を出て、追手筋からまっすぐまっすぐ葛島橋、高須、大津方面へ伸びる道やった訳ですな。
本丁筋から葛島橋へとつながる道路は、この土電の線路ができた際についでにつくられたものでしょう。明治末年のこと。が、こうやって見ると、電車の線路はありますけんど、車が通れそうな広さにはなっちゃあせんですね。