菅原高視さんは何故ここに住んだのか〔2351〕2009/09/22
2009年9月22日(火)雨のち曇りのち晴れ
今朝は雨が降りよりました。昨夜から結構しっかり降りよりました。で、今日が運動会という皆さんもいらっしゃったと思いますが、やりましたか?運動会。
まあ、中止にしたら後が大変、というがと、今日は降るがは朝のうちだけ、という予報を信じて開催したところも多かったみたいです。運動場はぐちゃぐちゃでも、やって正解でしょう、今日の高知市内のお天気やったら。
運動場と言えば、昨日ご紹介した筆山の大きなえぐれ。あのえぐれた部分の土は潮江地区の学校とかに使われちゅう訳です。
そのえぐれちゅう所から塩屋崎をまわり、筆山麓から高見山の麓まで行って、ちょっと登ったクにあるががここ。2007年12月10日、まだ夜明け前のこの場所をご紹介しちょります。菅原高視さんの邸跡とされちゅう場所ですね。ちょっと不思議な雰囲気が漂います。菅原高視さんは、このにっこりの深い読者の方はご存じの通り、菅原道真公のご嫡男。道真公が太宰府に左遷された際に、一緒に土佐権守として左遷。この高見山の麓に住んだとされちゅうがです。当時は現在の高知の市街地は浦戸湾の底。潮江も湿地帯。ただ、潮江は、高知でもかなり早くから荘園が拓けた土地でもあります。それにしても何でこんな場所に住んだがか。
当時、土佐の国府は、現在の南国市国分にありました。紀貫之さんも、土佐に赴任しちょった際にはそこに住んじょります。なぜ、高視さんは、ここに住んだがか。今度調べてみんといけません。
道真公の遺品を高視さんに届けようとやって来た松本白太夫さんは、当時浦戸湾最大の港があった大津で亡くなっちょります。国府はそのとっと北東で、大津からここへは浦戸湾を横断する船で来るしかありません。
ここに住みよったということは、土佐権守の実務の仕事はしやあせんかった、ということながでしょうかね。
2007年12月10日にご紹介した写真にうっすらと写っちょった、高視さんと思われる石像が、この写真左下にも写っちょります。この潮江方面を見下ろす像が、この場所にものすごい雰囲気を与えちょりますな。