大津の天竺氏と岡豊の長宗我部氏〔2303〕2009/08/05
2009年8月5日(水)晴れ!
毎日暑いですね。今日も夏の日差しが朝からギラギラです。
今朝は、電車通りをずうっと走るコースで出勤してみました。もちろん自転車で。このコースも、大津から南国に至る、古い歴史を持つエリアを通り抜けますきに、見所満載ですね。どっからご紹介しょうかこぢゃんと迷うがですが、今朝はここにしてみました。
大津の電車通り、一条橋電停のちょっと西側に、線路の南側の山へまっすぐに登っていく石段がございます。鳥居があり、その脇には「天竺右近花氏大津城趾」という古い碑が立てられちょりますね。その長い長い石段を登ると、緑の小径があって、その先に神社が鎮座しちょります。
ここに昔昔、お城の詰の段があったと思われ、そこに城八幡が建てられちゅうがです。この山のてっぺん界隈、このお宮さんの東には空堀みたいなのがあったり、ちょっと段々になっちょったりと、お城の雰囲気が垣間見えます。
今は樹々が鬱蒼としちょりまして、周囲を見晴らせませんが、この木がなければ、香長平野の南北を見晴らせる絶好のビューポイントであることでしょう。石段の一番上からは、真っ正面に岡豊の山が見えました。ご存じ長宗我部氏の本拠、岡豊城の山。
室町時代、土佐の守護代として力のあった細川氏の流れをくむと言われる天竺氏は、その出自から滅亡までがかなり謎に包まれちょりますね。この大津城は、どうやら、1544年、長宗我部国親さんの夜襲で落城したというががホントみたいです。しかし諸説あります。
長宗我部氏の、戦国土佐の制覇に向けた動きの始まり、といった時期ですな。岡豊かから見ても、この大津の山は目と鼻の先、という感じやったでしょう。
取り敢えず、ここを落として、こっからしゅっと南の介良の横山城をおとし、てな感じで近所から勢力を広げていったがでしょうか。
左端に城八幡の軒が写っちょりまして、その向こうの空堀を通り、緑の小径を抜けると石段の一番上。そっから、岡豊山がドカンと見えます。