「南国土佐をあとにして」の真実〔210〕2003/11/12
2003年11月12日(水)晴れ
今朝は久し振りによう晴れちょります。やっと秋らしゅうなりましたね。晴れた日は川がこぢゃんちきれいですんで、ひまわり太郎は浮かれて鏡川をたつくってきました。
写真は、柳原から天神大橋方面を撮影したもの。鴨の集団があちらこちらにありますて、高く鋭い鳴き声が響き渡りよりました。
このあたりに、その昔「南国橋」という趣のある橋が架かっちょりましたね。欄干がとても低い、こぢんまりした橋でした。
南国橋で思い出しました。「南国土佐をあとにして」の真実を、どいたち話しちょかんといけません。この話を、土佐人は忘れたらいかんがです。
この歌は、元々、太平洋戦争当時に中国大陸を転戦する、高知出身兵で編成された「鯨部隊」(歩兵第二三六聯隊)の中で誰ともなく作られて歌われ始め、口から口へ伝えられて広まった、明日をも知れぬ戦場の兵士の望郷の歌やったがです。戦後、復員兵が高知へ帰って歌いよったのが、県内に広まっていきました。
これを郷土の作曲家武正英策氏が採譜し、編曲します。
昭和33年、NHK高知放送局のテレビ放送開始を記念し、「歌の広場」という番組を高知県民ホールを会場にして全国に放送することになりました。ゲストはご存知ペギー葉山さん。
せっかくなので高知になじみの深い歌を、ということになり、「南国土佐をあとにして」の譜面をペギーさんに渡します。当時、ミュージカルに燃えていたペギーさんは、泥臭いこの歌を歌いたがらず、「ケ・セラセラ」を歌うことになったそうですが、最終的にはだまされた形で、本番は「南国土佐をあとにして」をいやいやながら歌うことになったのであります。そして大喝采を浴びたのが、きっかけになりました。昭和34年、ある曲のレコードのB面に吹き込んでみたところ大ヒットになったのだそうです。
元歌の「中支へ来てから幾年ぞ」が「都へ来てから幾年ぞ」に、2番の「月の露営」が「月のキャンプ」、「しばし娯楽のひとときに」が「しばしいこいのひとときを」、3番では「俺も負けずに手柄をたてて」が「俺も負けずに働きながら」と、変更されちゅうがですね。ペギーさんもこの歌の成り立ちをよくご存知で、その思いを込めて歌って下さりゆうそうです。
少し長くなりました。
上にも書きました昭和33年、県民ホールで初めてこの歌を歌ったときのペギー葉山さんの感想をそのまま転記します。
「2番を終わって間奏に入る時に、会場から異様に熱い風が迫ってきた。ひとりひとりの観衆が暖かく手をさしのべ、やがて大きなうねりのように手拍子に変わっていった。3番は会場に大合唱がおこった。歌い終わった時、どよめきと拍手と歓声の中で、我を忘れてステージに立ちすくんでいた。」